──ソ連崩壊をどう受け止めましたか?
私はベルリンの壁の崩壊を、対立がなくなっていいよねって喜んだ一人ですし、鉄のカーテンの時代のソ連を経験していたので、新しい時代が来るんだと興奮しました。
24歳の演奏旅行でラトビアやジョージアに行ったとき、「お客さんがいやがるからロシア語はしゃべっちゃだめ」って言われたのは強烈でした。それぐらいソ連への反発が強かった。旅行中には、チェコで民主革命が起こってソ連の戦車が入った「チェコ事件」も起きましたし。
でも私は西側の人間としてソ連を見ていたんですよね。それを痛感したのは、2018年にサハリンに行って、現地の学生に私が大切に歌ってきた「百万本のバラ」の話をしたときでした。
この歌を作詞したロシアの詩人、ヴォズネセンスキーは反体制派だったけれど、言論や思想の自由化が進んだグラスノスチの時代だったので曲が禁止されなかった。それでソ連中の人が興奮して、大ヒットした背景があります。
だから「『百万本のバラ』はグラスノスチの歌です」って伝えたんだけど、通訳の人が「みんなつらい思い出があるのでその話はしないほうがいい」って。ソ連時代、経済は発展しなかったかもしれないけど、人々の生活は保障されていた。でもソ連が崩壊して、突然路頭に迷う人も出たわけです。
ウラジオストクで91年と92年の夏のちがいを見ていたけど、そこまでは思い至らなかった。あちこちでおいしいものをご馳走して頂いて、劇場でも心のこもったセットを作ってもらって。私にとってロシア人は、どんなときでも精いっぱいのおもてなしをするあったかい人たちです。
■「キーウは京都のようなもの」
──ロシアのウクライナ侵攻をどう捉えている?
ただただ、両方の国の人の平和と幸せを祈っています。ロシアにはこんな恐ろしい国になってほしくなかった。うちの父は「ロシア人にとってキーウは京都のようなもの」と言ってました。キエフ公国の東の端にあった小国がのちにロシア帝国になったんだから、キーウは出発点であり故郷なのだと。
ボルシチが典型ですけど、ロシアの家庭料理って本当はだいたいウクライナ料理なんですよね。親戚が二つの国に分かれて暮らしているケースもあるし、両国の人の間にあるのは反発ばかりではなかったと思う。でも国と国になると、ウクライナはソ連に圧政を敷かれた経験を持っていたり、今回の戦争の前にも目を覆いたくなるほどの激突の歴史があったことは事実です。