『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』 井上荒野 著
朝日新聞出版より4月7日発売予定

 恋愛、合意、セクハラ、レイプ。 同じ行為について、これほど違う言葉で表されることはそれほど多くないだろう。だからこそ、被害者がどれほどその苦しみを語っても、加害者や第三者は平気でこんな言葉を投げかける。

 それくらいたいしたことないだろう――。

 どうして被害を受けた者と加害者との間に、これほど大きな認識の溝ができるのか。『生皮』は、この意識のずれに迫った小説である。芥川賞作家を送り出した小説講座の人気講師を、かつての受講者が性暴力被害で告発するところから物語は始まる。 咲歩は夫を深く愛しているのに、子どもをほしいと願っているのに、汚れた自分の体では子を産むことはできないと考えている。夫に触れられる度に、彼の手が汚れるような気にまでなる。「知られることをこれほど怖がっているのにもかかわらず、誰も知らない、ということに傷つけられる。どうして誰も知らないのだろう。どうしてそんなことが許されるのだろう。私があんな思いをしたのに」

 泥水でビショビショのコートのような望まない性行為の記憶を脱ぎ捨てるために、咲歩は告発を決意する。そうしなければ一歩も前に進めないからだ。

 だが、それに対して愛する夫も、世間も冷たい目を向ける。被害者は人気講師のほうではないか。なぜ七年も経ってからわざわざ言い出すんだ。ホテルに一度ならず、何度も行ったのは合意していたからではないのか。人気講師は、暴力も恫喝もなかったし、これは大人の関係、小説的関係だと反論していた。被害者と加害者、その家族、傍観者たち、そしてTwitterなどSNSで広がっていく人々の声が丹念に描かれることで、同じ現実がどこまでもずれていく様があぶり出される。そして加害に加担しているのは、本当に加害者だけなのかとつきつけられる。

 その問いかけが胸に迫る場面がある。「被害者っていうのもおかしいよな。レイプされたわけじゃないんだから」とバーで笑う声を人気講師の娘は聞く。そして、こういう会話はいつでも近くにあったし、自分もその会話に加わったと振り返る。しかし、父の行為を知った後の娘はこう思う。

「今、私は同じ風景を、剥がされたばかりの動物の皮を無理やり見せられているような気分で、見ている」

 加害は、性被害のその場面だけで起きているのではない。ある事件が起きる前に、加害につながる社会の空気はとっくに醸成されていたのだ。それは「膜」という言葉で説明される。加害者は自分の誘いに応じるのは当然だろうと信じている。性的な接触はコミュニケーションとして必要だ。世間は女性にすきがあるのも悪いと膜のかかった世界から無責任に、あるいは無邪気に裁く。

 体中を覆って、感覚のすべてを歪ませる膜は被害者にも存在する。こんなことは平気だ、セックスなんてたいしたことじゃないと思い込もうとする。どんなふうに扱われたかを認めてしまえば、自分がどれほど惨めな存在か直視せざるを得なくなるからだ。

 著者は単純な構図や安易な結論を否定し、徹底的にその膜の正体に迫っていく。この膜は何も性暴力だけではないだろう。パワハラや差別、偏見にも通じる。弱い立場の人間を軽んじる発言。力関係で何も言えない自分への怒り。読むうちに私は忘れていたことを思い出し、本当は忘れていないことに気づき、膜をはって見ないようにしていた自分の心の奥底を覗き込もうとして息を切らす。

 人間の生皮を剥ぐ行為とは何かを本作は繰り返し問う。性暴力によって他人から無理やり皮を剥がれるのと、自ら選んで皮を剥いでいく行為は違う。どれだけ血を流そうと、激しい痛みがあったとしても、自ら膜を取り、生皮を剥いでいくことでしか見えない真実がある。

 この小説は、著者にとって初めての社会的関心から執筆した作品だという。『あちらにいる鬼』のインタビューで、著者は今までずっと人間のこと、男と女のことを書いてきたが、これからは今の時代、社会の空気を描くことに挑戦したいと語っていた。それはすでにそれまでの作品で心の深いところまで降りて、自分の奥底を覗き、生皮を剥いだからこその心境ではないか。

 どれほどつらくて痛くても、徹底的に自分の心と向き合うことで何度も自らを発見し、理解していくことでしか膜は破れない。社会に目を向けると、さまざまな膜に包まれているように思える。本書はこのような時代の空気に風穴を開ける傑作であり、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願う。