誰にも、身近に死んだものがいるだろう。家族や飼っていた動物、枯らしてしまった植物。私にもいる。縁の深かった人がコロナで死んだ。死ぬような年齢ではない。ずどん、と気もちが落ちた。それからだんだんと悲しくなった。悲しみという感情は途切れるということがなく、少しずつ少しずつ人の心を浸していくものだと知った。だが一方で、死ぬときには、何が原因で悲しいのかうれしいのか腹立たしいのかなんて、わからなくなってしまいそうだなと、これはいま、死にゆく母を見ていて思う。本書を読んでも、お経の言葉が、言葉の奥のほうにあるそうした因果を溶かしてしまうような印象をもった。そうして、顔も名前も見知った特定の死者の向こうに、会ったことのない、名前も知らないたくさんの死者たちの存在を感じた。お経の言葉が呼び出したのだろうか。あたたかい。人肌の温度をもった現代語訳だ。このなかで、唯一、わたしが唱えることのできるのは般若心経だが、著者はこのお経を芝居仕立てで書いていて、出だしはまさにト書き。(薄暮。川のほとり。階段ができている。三十~四十人の聴衆のいる場。川の向こうで、ブッダがめいそう中。階段の上に立って話をしているのは、かんのん。修行者であり、ぼろぼろの糞掃衣を着ている。……)

 ブッダ、かんのんの他に、しゃーりぷとらという、これも修行者が登場する。かんのんが冒頭で、「わたしは共感する者であります。」と宣言する。鮮烈な出だしだが、原文のほうの冒頭には「観自在菩薩」。自在に観る菩薩ということらしい。かつて伊藤さんがその意味をたずねたところ、曹洞宗の藤田一照師は、「人々の苦を、共感する存在」と答えてくれたのだという。自由自在に「観る」ことのなかには、人の悲しみや苦しみを「感じる心」も入っているんだなあと、わたしはこんな小さなところ一つにも、心動かされて立ち止まった。本書の翻訳には、こうした細部にも、思いが入っている。時間がかかっている。手間もかけられている。人から人への心の橋渡しがある。 かんのんはこの後、一切は無だと説きながら、激しい無のダンスを踊る。これも新しいかんのんのスタイル。「目」も無い。「耳」も無い。「鼻」も無い。「舌」も無い。「皮膚」も無い。「心」も無い。無い。無い。無い。無い。無い。絶叫するしか無い。足を踏み鳴らすかんのんの、タップダンスの靴音が聞こえて来る。かんのんが踊っているのだかわたしが踊っているのだか。渦の中心には、しまいにはもう誰もいなくて、激しい言葉の靴音だけがあがっている……。

 他に、驚いたのが「源信の白骨観」と「九相詩」。付随するエッセイも含めて、ぞくっとした。著者による朗読CD付きだ。耳で聴いた後に読むのもいい。

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