そうした山口の意見も社内で共有されていたが、2021年11月16日の配本日は、早川書房の誰にとっても、不安と期待がないまぜになった運命の日だった。11月18日にはほぼ全国の書店に配本が終わる。

 出版社では、書店からの売上データをほぼリアルタイムで、POSのデータで見ることができる。

 11月18日、早川浩は、息をのむようにしてその画面を開いた。

 売れている! どの書店チェーンのデータも3けたの売れ行きを示していた。

 その日5000部の重版がかかった。

 そして、その後発売1カ月にもかかわらず、直木賞の候補になり、翌年4月には本屋大賞も受賞、ウクライナ情勢の急変もあいまって、部数は40万部を超えるのである。

 アガサ・クリスティー賞は、北上次郎が当初言ったように10年では、話題作を生むことはできなかったが、11年目にして賞の名前を轟かせる作品を生んだのだった。

 こうしたうねりを生むことができたのは、早川書房が早川にしかない特質を最大限活かしたからだ。それは、翻訳の総合出版社という日本でただひとつの特長だ。

 社内選考で最初に『同志少女~』の原稿を読んだ小塚麻衣子はこんなことを言っている。

「皆川博子さんに97年に出していただいた『死の泉』はナチスドイツが舞台でしたが、吉川英治文学賞を受賞しました。うちは外国のことを日本の作家が書くのに抵抗感はないんです。そこが他と違うところかな」

下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。

週刊朝日  2022年7月22日号