横浜市電600型は500型の戦災復旧車で、15両が在籍した。500型譲りのブリル79E2型低床式単台車を装備した軽快な外観で「ミナト・ヨコハマ」を走った。横浜駅前(撮影/諸河久:1967年4月5日)
横浜市電600型は500型の戦災復旧車で、15両が在籍した。500型譲りのブリル79E2型低床式単台車を装備した軽快な外観で「ミナト・ヨコハマ」を走った。横浜駅前(撮影/諸河久:1967年4月5日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は特別編として、前回に引き続き「単車」と呼ばれた四輪で走る路面電車の話題だ。

【横浜の写真の続きや函館、長良川を渡る路面電車など、当時の貴重な写真はこちら】

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 筆者は1960年代後半の学生時代、高価だったカラーポジフィルムを携行して各都市の路面電車を訪ね歩いている。すでにこの時代はボギー車の全盛期で、単車は過去の車型になっていた。それでも「単車天国」と謳われた横浜、神戸、岡山を始めとして、函館、岐阜、高知の各都市で働く単車をカラーポジフィルムに記録することができた。

 今回は横浜、函館、岐阜で活躍した忘れ得ぬ単車たちを紹介しよう。

東の「単車天国」横浜

 冒頭のカットは横浜市交通局(以下横浜市電)の600型単車。横浜駅前(東口)の京浜第一国道を走る一コマ。撮影月に行われた統一地方選挙の看板を側面に吊り下げたため、車号や運転系統は不明のままだ。

 横浜市電は1960年代に入っても5形式86両の単車を保有しており、関西の神戸市電と双璧の東の「単車天国」だった。この600型は1928年に製造された500型の戦災復旧車で、1947年に15両が三菱重工横浜造船所で復旧されている。500形に比べ下降窓が上昇窓になり、腰羽目と屋根が浅い軽快な半鋼製車体に再生された。自重9.1トン、定員75(18)名と座席定員が少ない(カッコ内は座席定員)。台車は500型から引き継いだ軸距2591mmのブリル79E2型低床式単台車で、エアーブレーキを装備していた。
横浜市電滝頭車庫跡に開設された「横浜市電保存館」で静態保存される500型低床式単車。戦前の凝った塗装に復元され、低床式単車の車内乗車を体験できる。(撮影/諸河久:2017年11月19日)

横浜市電滝頭車庫跡に開設された「横浜市電保存館」で静態保存される500型低床式単車。戦前の凝った塗装に復元され、低床式単車の車内乗車を体験できる。(撮影/諸河久:2017年11月19日)

 次のカットは600型の礎となった500型低床式単車の現況だ。二年前の横浜市電編にも掲載した「横浜市電保存館」に収蔵され、往年の凝った塗装に復元されている。45両在籍した500型の最後の一両がこの523号で、横浜市電の最終日となった1972年3月31日のお別れパレードの一員として市内を走っている。製造所は東京瓦斯電気工業(日野自動車の前身)で、半鋼製の車体と単台車のスペックは600型と変わらないが、定員75(22)名と座席定員が若干多くなっている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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