最後まで残ったのが渋谷のスクランブル交差点だった
東京がオリンピックの開催地に決定したのは13年。次第に世間の雰囲気が盛り上がってくると、「東京のいま」を表現するテーマをいろいろ探しては撮影した。
「長いものは半年くらい撮りましたけれど、1、2回撮影して終わりとか、自然と足が向かなくなったものが多かったですね。そのなかで最後まで残ったのが渋谷のスクランブル交差点だったんです」
ほかにはどんな場所を写したんですか? と、たずねると、通っていた下町(※2)を除けば、「実は『場所くくり』、というのはあまりなくて」。
「うまく表現できないですけれど、光みたいなものとか。よく撮っていたのは、ガラス張りのビルに光が反射して地面になんか変な模様ができたの。そこに人が通りかかって、スポットライトが当たっているようなのを写したり。スーツケースを引っ張る、明らかに旅行に来ました、みたいな人ばかりをねらったり。あと、皇居あたりに行くといっぱいいる団体旅行をする人とか。いろいろですね」
渋谷のスクランブル交差点は17年に1年間、集中的に撮影した。すると、「けっこうたまって。ああ、なんかカタチになりそうだな、という感じがあって。そこからはずっと撮り続けました」。
渋谷はサラリーマン時代の思い出がある、行きたくない場所(笑)
スクランブル交差点のほか、渋谷はあちこち撮ったんですか? と、聞くと「いや、別に。渋谷自体にはそんなに興味はなくて」と、意外な言葉が返ってきた。
「以前、渋谷で勤めていたことがあったんです。だから、どちらかというと、思い入れがあるというより、サラリーマン時代の嫌な思い出がある、行きたくない場所(笑)。でも、あの交差点は特異というか……」
――交差点に引かれた、ということですか?
「交差点って、人と人が交わって面白いな、と思うんです。特に渋谷スクランブル交差点は規模が大きくて、あらゆる方向から人の群れが向かってくるし、あれほど人数が多いところはないでしょう」
それを観察していると、「本当に多種多彩というか、いろいろな人がいる」。
「作品を見た人から、『こんな人、いるんですか?』って、言われるんですけど、実は撮り逃した人の方が多くて。遠くに見えていたけどそこまで行けなかった、みたいな人がいっぱいいるんです」
(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
※1 石元泰博は戦後、ドイツ流の造形美を日本の写真界に吹き込んだ写真家。晩年、渋谷を写した。
※2 鹿野さんが下町で撮影した作品「さよなら東京」は玄光社のウェブサイト「CAMERA fan」で連載されていたが、いまはこちらのサイトに移っている。味わい深い作品なので、ぜひ見てほしい。
【MEMO】鹿野貴司写真展「#shibuyacrossing」
ソニーイメージングギャラリー(東京・銀座) 9月18日~10月1日