音楽劇のワークショップ「ぶんきょう演戯塾」卒業公演の稽古中(中央)。「ロールプレーで子どもを叱る役をした親御さんはそれはダメだと気づく。演じてみてとても勉強になった」。学びに貪欲だ(撮影/東川哲也)
音楽劇のワークショップ「ぶんきょう演戯塾」卒業公演の稽古中(中央)。「ロールプレーで子どもを叱る役をした親御さんはそれはダメだと気づく。演じてみてとても勉強になった」。学びに貪欲だ(撮影/東川哲也)

■怒りが顔に出た研修医時代、患者から怒鳴られたことも

 ラグビーに熱中していた山中は、練習後に病院での実習に遅れて駆けつけ、成田にキツく叱られたことがある。

「患者さんを待たせるなんて信じられない、と。めったに怒らない子がカンカンで。僕はとにかく謝るしかなかった」と頭をかく。真面目で頭脳明晰(めいせき)、字がきれいな成田から借りたノートのおかげで単位が取れた。救ってもらったノートのコピーはいまだに持っている。

 逆に山中が成田を救ったこともある。「骨学」の授業で200種類以上の骨の名前を英語と日本語で覚えなくてはいけないのだが、成田は「覚えなきゃいけない意味が分からない」と言い張り、追試になった。だが、試験をパスしなくては卒業が危うい。山中は仲間とともに成田を説得。放課後も大学に残って、骨の名前を覚えさせた。

 解剖実習も印象に残る。ホルマリン漬けにされた献体を学生たちは2人1組で2~3カ月かけて解剖させてもらう。山内・山中組はともに熱心に取り組んだ。通常はビニールの手袋をするが、少し経つと成田は素手でやり始めた。

「すごく驚いた。手袋をすると感覚が鈍ると思ったのか、ご献体に対する敬意なのか」と、山中は成田の学ぼうとする迫力に圧倒された。

 山中の思い出の中では、成田は一点の曇りもない幸せそうな医学生に見える。そのことに対し成田は「さまざまな人との出会いに救われた。山中君もそのひとり。大学に入って、成人して、すごく充実した6年間だった」と感謝する。

 大学を卒業し小児科の研修医になった成田は、そこで世間を知る。「子どもが泣き止まない」と救急車に乗ってやってくると、2週間前からのおむつかぶれだった。

「子どもがかわいそう」

 若い成田は怒りが顔に出る。患者から「態度が悪い」と怒鳴られた。殴られたこともある。

「はらわたが煮えくり返ったけど、彼らの仕事の環境や育ちの背景を知っていれば、もっと違う対応ができたのにと思う。医者にそんな目がないと、児童虐待は予防できないから」

 成田にとって人間修業ともいえるような研修医時代。そこで出会った同期が、夫の正明(57)だ。27歳で結婚を決めたが、母から「(正明の)家が医者じゃない」などと言って反対された。なんとか説得し新居への引っ越し日を迎えたが、母にマンションの契約をキャンセルされてしまう。親との葛藤に心をズタズタにされた成田は、飲めない酒を浴びるように飲んだ。床に倒れて寝る妻を、正明は何も言わずに支えてくれた。

「僕と彼女は性格が正反対。彼女はすべてにハッキリしている。自分で答えを出して突き進むのを、僕はただ見守っている感じ」と話す。

 結婚から4年後、米セントルイスへ夫とともに留学し発達脳科学などを学ぶ。帰国後、二つの病院の小児心理外来で診察するなか、現在の活動の源流になる男児と出会う。発達障害者支援法が初めて施行された2005年のことだ。診察から3分で、高機能の自閉症スペクトラムだとわかった。いじめられ、我慢した末の不登校。強い衝動性とうつ症状が見られたが、小学6年生という年齢に不相応な完璧な敬語を話した。

「口達者な子に見えるが、できないことをそれでカバーしている」と保護者や担任に伝えた。

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