知能テストでは高得点をたたき出すのに「普通のことがまったくできない」。結婚前まで臨床心理士だった母親をいら立たせた。テストで100点を取っても、よく頑張ったねと褒められたことはない。ましてや、抱きしめられたり、頭をなでられたりもない。被虐待児だった。
「心理的虐待ですね。ずっと完全否定されていました」
母親に認められたい一心で勉強を頑張った。塾に通わず地元で一番の名門中学に合格しても、決して認められることはない。気づけば、母の膝の上にいるのはいつも妹だった。
自分は母親に愛されていない――。ならば愛さなければいいのに、子は懸命に親にすがろうとする。成田も母を求め続けた。
子どものころ、母の裁縫箱からこっそりボタンをひとつだけ盗んだ。母のワンピースについていたボタンだ。その服を着て、白いイヤリングをつけた母に憧れていた。だが、ボタンひとつでも「ちょうだい」と甘えられない関係だった。
「お母さん、大好きだよ」
言いたくてたまらないのに言わせてもらえない。
「だから頑張るわけ。嫌いになれたら楽なんだけど、そこが子どもという立場のつらさかな。発達障害という概念がまだない時代に、娘のつらさに寄り添うのは難しかったのかもしれません」(成田)
父は穏やかな人だったが、ほとんど自宅にいなかった。父親はモーレツサラリーマン、母親は教育ママという1970年代の性別役割分担主義の時代。結婚でキャリアを奪われた母は、娘を立派に育てることで自己実現を図ろうとしたのだろう。
「でも、母の望む子ども像に、私は当てはまらなかった」
15歳のとき、母が白血病に侵される。自由を満喫したい高校生だというのに、成田は自宅で母の看護と掃除や洗濯をやりながら受験勉強に集中し、難関の神戸大学医学部に合格した。
「医学部に入っても、まったく認められなかった。その敗北感は今も続いている。この年になってもまだ取れんのかーってね。ハハハハ」
亡くなる前に認知症を併発した母に、妹を指し「私の娘はこの子ひとりなの」と言われたのは殊更堪(こた)えた。優秀な成田に対する嫉妬もあるいはあったかもしれない。
それにしても、キツいよね――。笑い飛ばした顔が、一瞬にして哀しみにゆがんだ。
とはいえ、大学進学をきっかけに親から少しずつ自立していった。母の看護や家事をこなしながら、アルバイト、大学と精力的に活動した。
当時を知るひとりが、後にiPS細胞を作製しノーベル生理学・医学賞を受賞する山中伸弥(57)だ。成田の旧姓「山内」と出席番号が隣り合わせだった山中は、実習グループや解剖のペアが一緒。ともに過ごす時間が長かった。