中ノ口川の護岸壁に沿って走る新潟交通は「土手下電車」の呼称で親しまれた。板井駅から七穂駅に到着した燕行きクハ37は旧国鉄気動車の改造車。(撮影/諸河久:1967年5月3日)
中ノ口川の護岸壁に沿って走る新潟交通は「土手下電車」の呼称で親しまれた。板井駅から七穂駅に到着した燕行きクハ37は旧国鉄気動車の改造車。(撮影/諸河久:1967年5月3日)

 画面右手は信濃川の支流である中ノ口川の護岸壁で、この護岸壁に沿って路線が敷設されていたことから、愛好者は新潟交通を「土手下電車」と呼んで親しんでいた。

 撮影地は列車交換が可能な七穂駅。訪問時は駅員がタブレットを授受していたが、1970年に全線が自動閉塞に改良されて、この光景も過去のものとなった。
 
 白山前~東関屋の軌道線は、狭隘な道路上の交通渋滞と振動や騒音への苦情が日常化し、1992年3月で廃止された。残存した鉄道線もワンマン運転やCTC導入による合理化、不採算区間の部分廃止などが図られたが、悪化した業績を回復できず、1999年4月で全線が廃止された。

残雪の松本駅前停留所で浅間温泉行きに乗り込む乗客たち。廃止5日前の賑わいの一コマ。(撮影/諸河久:1964年3月26日)
残雪の松本駅前停留所で浅間温泉行きに乗り込む乗客たち。廃止5日前の賑わいの一コマ。(撮影/諸河久:1964年3月26日)

■浅間温泉に通った松本電鉄浅間線

 国鉄(現JR)松本駅前から美ヶ原山麓の浅間温泉への足として温泉客に親しまれた路面電車が松本電鉄浅間線だ。1924年に筑摩電気鉄道が松本駅前~浅間温泉を結ぶ5300m の路線を開業したのが浅間線のルーツだ。全線単線で軌間は1067mm、市街地の松本駅前~旧日ノ出町の手前までが併用軌道で、以遠は専用軌道で敷設された。電車線電圧は600Vだったが、後年750Vに昇圧している。

 浅間線の冒頭写真は、国鉄(現JR)松本駅北西側に位置した松本駅前停留所で乗車を待つ浅間線の電車。朝夕の増発時には右側の乗降所も使用された。浅間線の車両は全て木造車で、創業以来の古風な救助網を装着していた。写真のホデハ1型デハ6は1927年汽車製造製。擦り減ったステップを踏んで一段高い客室に入ると、白熱灯に照らされ、古色蒼然とした世界が展開した。

 戦後になっても浅間線の木造車両は更新されなかった。その理由は、狭隘な駅前道路の交通渋滞が顕著となり、松本市から軌道撤去要請が出されたため、松本電鉄が廃止を前提とした浅間線のインフラに投資しなかったからだ。

市内目抜き通りを続行運転する浅間線の電車。歩道もない路上は多くの通勤・通学者で賑わっていた。写真のデハ12は1929年日本車輛製で、かつてはオープンデッキ、トロリーポール集電だった。学校前~市民会館前(撮影/諸河久:1963年9月21日)
市内目抜き通りを続行運転する浅間線の電車。歩道もない路上は多くの通勤・通学者で賑わっていた。写真のデハ12は1929年日本車輛製で、かつてはオープンデッキ、トロリーポール集電だった。学校前~市民会館前(撮影/諸河久:1963年9月21日)

 次のカットは、駅前から学校前まで続く1400mの単線併用軌道を松本駅前に向かう浅間線の電車。朝の通勤時間帯にはこのような続行運転で乗客をさばいていた。電車が走る「電車通り」と呼ばれた国道143号線は歩道の設置もなく、軌道の両脇がやっと一車線の狭隘な道幅だった。

 浅間線は松本駅前の交通渋滞緩和が目的で、東京オリンピックを目前にした1964年4月に廃止された。先年松本市を訪れると、駅前からの旧電車道は四車線に拡幅され、往時の家並も高層ビルに建て替わり、浅間線の面影は追憶の彼方に旅立っていた。

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