1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。昨年に引き続き夏休み特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。第3回は甲信越と北関東で活躍した新潟交通、松本電鉄浅間線、茨城交通水浜線の路面電車にスポットを当てた。
【新潟、長野、茨城を走った路面電車と、かつての美しい街並みの写真はこちら(計7枚)】
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高度経済成長期の1960年代、全国的に路面電車は追いやられた。
地方都市に押し寄せたモータリゼーションと過疎化が進んだ影響が大きいが、新潟を走った新潟交通は1999年まで残存した。だが、それもすでに21年前のこと。廃止されて久しい。往時の作品から、各都市で活躍した路面電車の足跡を辿ってみよう。
■「土手下電車」と呼ばれた新潟交通
国鉄(現JR)新潟駅から北側に位置する信濃川を渡り、西進すると新潟県の官庁街が展望できる。その南側には新潟総鎮守「白山神社」の杜が広がっている。昭和期には白山神社大鳥居の門前に新潟交通県庁前駅が所在し、新潟県唯一の路面電車として賑わっていた。
新潟交通の冒頭写真は、県道(はくさん通り)に敷設された単線軌道を県庁前に向かう電車で、朝の通勤時間に対応するため後部に旧小田急のクハ45型を二両増結している。新潟交通の走る狭隘な電車道はマイカー通勤の車列で溢れており、電車は低速運転を強いられていた。
新潟交通のルーツは、新潟電鉄が1933年に県庁前~燕35800mを軌間1067mm、全線単線で開業したことに始まる。このうち、県庁前~東関屋(鉄軌分岐点)2200mは県道に併用軌道を敷設し、途中に6か所の停留所(1944年に廃止)を設けて、軌道法により運行していた。新潟電鉄は戦時中に新潟合同自動車と合併し、新潟交通が発足している。
次のカットは瀟洒なたたずまいの県庁前駅本屋を背景に発車を待つ燕行きの電車。撮影した筆者の背後には「白山神社」の大鳥居がそびえていた。先頭車は戦時下の1944年に日本鉄道自動車が製造したクハ34型。当初は両側運転台だったが、1964年に片側運転台仕様に改造された。県庁前駅は1985年6月、西側に隣接した新潟県庁の移転にともなって白山前駅に改称されている。
最後のカットが、東関屋~燕の鉄道線を走る燕行き下り電車。写真のクハ37型は路面区間用の救助網を備えており、新潟鐵工所が1934年に製造した国鉄キハ41000型気動車がその前身。1952年に国鉄から譲渡され、新潟交通の一員に加わった。