■水泳と勉強の両立目指し、慶大を休学し米国へ留学

 同じころ、寮の食堂でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、ユーゴスラビア内戦の記事の隅に、ルワンダで100日のうちに100万人の人が虐殺されたという記事を見つけた。1日で1万人。自分がまったりコーヒーを飲んでいる間に何千人何万人の尊い命が奪われていると思うと、いても立ってもいられなくなった。この時にはっきりと、将来は人道支援の道に進むと決めた。イトマンの選手は近畿大学に進むのが既定路線。井本は当時の会長に直談判し、国際関係を深く学べる慶応義塾大学総合政策学部の受験を認めさせた。

 バルセロナ五輪金メダリストの岩崎恭子(41)は、日本代表の遠征や合宿で度々井本と顔を合わせた。2歳上の井本が凄く大人に見えたと語る。

「ほとんどが10代の女子ですから、皆つるんだりするんですけど、直歩ちゃんはいつもマイペース。選手は自分のタイムのことしか考えない。でも直歩ちゃんは勉強もしていたし、他国の選手に目を向けるなど、独特の世界観を持っていましたね」

 大学2年でアトランタ五輪に出場。リレーで4位になったものの、専門の自由形は予選落ち。結果に満足できず帰路の機内で泣いていると、後部座席にいた橋本聖子(55)に声を掛けられた。

「納得できないのであれば、続けなさい」

 水泳と勉強の両立を探り、井本は慶大を休学し、米国サザンメソジスト大学に留学を決めた。同大学は全米水泳選手権で常に上位につけ、国際関係論も学べた。この4年間は、人生で最も勉強した時期と振り返る。

「当初は満足に英語も話せないから授業がちんぷんかんぷん。友達にノートを借りて復習の毎日。成績が悪いと試合にも出場できないから、寝る間も惜しんで勉強していた。フランス語を学び始めたのもこの頃から」

 卒業して慶大に復学。シドニー五輪を目指したものの、予選で夢が潰えた。それでも「やり切った」という充実感があり、次なる道である国連職員へ目標が定まった。国連職員の採用試験資格には、大学院修了が条件で国際支援の現地経験も必要だ。井本はまず、英国マンチェスター大学大学院を受験。合格したものの、実社会経験も必要とテレビ局の水泳リポーターやスポーツライター、橋本聖子の議員秘書などを1年間務め、渡英した。大学院では「貧困・紛争・復興」で修士号を取得した。

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