同時期、JICA(国際協力機構)がインターンを募集しているのを知り応募。貧困に喘いでいたガーナに赴任した。満足な食べ物も口にできず、明日へ命を繋ぐことで精いっぱいの人たちに触れ、中学時代から関心を抱いていたことが現実になり、井本は武者震いしたという。

「やっと自分の居場所に辿り着いたという高揚感ですね。私の仕事は学校や施設を建てるのではなく、現地の人たちが少しでも豊かに生きるために必要な持続可能な知恵を伝授すること。バスケットの生産をしているある村では、原価計算の考え方や売るためのデザインの見直しを指導。現地の人は識字率が低いので、中間搾取されている仕組みが分かっていませんでした」

■怨みの連鎖を断つには子どもの平和教育が一番

 農業を猛勉強し、トマトや落花生の栽培なども教えた。そんな働きぶりが認められ、半年後には有給の企画調査員として、紛争が終結したばかりのシエラレオネに赴任。映画「ブラッド・ダイヤモンド」の舞台にもなったシエラレオネは、同国で採掘されるダイヤモンドが紛争の資金源になり、捕まった敵地の住民の多くは両手を切断されていた。手が無ければ農業が出来ず、兵士としても戦えず、選挙用紙にもサインが出来ないからだ。だが井本は残忍な現実に怯まなかった。いや、怯んでいる暇がなかった。井本はたった一人で、シエラレオネに開設予定のJICA事務所の物件探し、現地政府への認可申請、スタッフの採用などに奔走しなければならなかったからだ。

「同国の大臣や政府高官クラスに、走りながら名刺を配っていましたね」

 その半年後、当時のガーナ事務所長で現・JICA上級審議役の宍戸健一(58)がシエラレオネを訪ね、驚いた。事務所がすぐに稼働できるほど整っていたからだ。

「経験の浅い人が一人でここまでやれるもんかと。でも、一緒に仕事をして分かったのは、日本人には珍しい類い稀なコミュニケーション能力を持っていることです。僕らの仕事で最も難しいのは、現地の人と人間関係を作ることですが、彼女は電話一本で現地の大臣クラスを説得していた。人種、職種などの壁が無いからだと思います」

 1年後にルワンダに赴任。ルワンダは高校時代に国際支援活動に目覚めるきっかけになった国。井本は胸をときめかせた。その一方、ジェノサイド(大量虐殺)から10年も経っているのに、住民の心の底にはその悲惨さが深く刻まれていることに心が痛んだ。平和を装ってみても、肉親を殺された恨みは消えず、他人に心を開かない。もっと工夫し暮らしを豊かに出来ることはあるのに、行動しない。彼らにしてみれば、コツコツ積み上げても、戦禍や搾取で一瞬にしてすべてが奪われてしまうことを体験的に知っているからだ。

「現地の人に先進国の理屈や正義を押し付けても始まらない。だからまず徹底して現地の人たちの声に耳を傾け、データにし、何が適切な支援方法か見いだし、そしてスピード感をもって実行する。支援方法は国によって違うけど、怨みの連鎖を断ち切るためには、現地の子どもたちに平和教育することが一番の方法、と思い至りました」

暮らしとモノ班 for promotion
なかなか始められない”英語”学習。まずは形から入るのもアリ!?
次のページ