「中学に入学したばかりの頃はホームシックで泣いてばかりいましたけど、大阪行きは自分で決めたので泣き言は言えなかった。おかげでこの時に耐える力がついたと思います」

 中2でジュニアの日本代表に選ばれ、国際大会に出場するたびに純真な心は揺れ動いた。同じ国を代表する選手なのに、みすぼらしいユニホームの選手や、極端にタイムが遅い選手がいた。片言の英語でそうした選手やコーチに事情を聞くと、国の支援が無くてユニホームが買えず、練習プールも満足に使えないという。一方、自分たちはメーカーから物品をふんだんに提供され、何不自由ない環境で練習が出来ている。たまたまその国に生まれただけでこんなに環境が違うのは、スポーツをやる上でフェアじゃない、と疑念を抱いた。後に貧困国支援の道に転じる萌芽でもあった。

 高1で迎えたバルセロナ五輪の出場がかかる日本選手権。僅か0・1秒差で出場権を逃した。

「オリンピックのために24時間捧げてきたので、私の人生はもう終わったと思いました。次のアトランタ五輪の時は20歳。当時は中高校生が全盛だったので、もう諦めるしかないのかと……」

 小6で学童新記録を樹立したことを思い出した。才能が無いわけではない。そしてもう一つ、引退できない理由があった。同じ自由形には1学年上に絶対的な存在だった千葉すずがいて、井本は多くの試合で千葉の後塵を拝した。シルバーコレクターを卒業したい――。そんな強い思いが、井本を再びプールに向かわせた。

 広島で開催された94年のアジア大会。その選手村で、高3の井本が将来を決める決定的な出来事があった。栄養管理に気を使いながら食事をしている井本らの横で、途上国から出場した選手たちは、アイスクリームやプリンを山のように並べ頬張っていた。選手村の食事はすべて無料なため、パフォーマンスを上げること以上に美味しいものをたらふく食べることが優先されていたのだ。つらい光景だった。

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