秋田駅前から続く広小路に敷設された単線軌道を土崎に向かう秋田市電。画面左側の視界には秋田藩主佐竹公の居城、久保田城跡の千秋公園が広がる。秋田駅前~公園前(撮影/諸河久:1965年7月30日)
秋田駅前から続く広小路に敷設された単線軌道を土崎に向かう秋田市電。画面左側の視界には秋田藩主佐竹公の居城、久保田城跡の千秋公園が広がる。秋田駅前~公園前(撮影/諸河久:1965年7月30日)

■秋田市電は本州最北端の公営路面電車

 秋田の冒頭写真は、久保田城の濠端に沿った広小路を走る土崎行き秋田市電。駅前に続く広小路は朝の通勤者で賑わい、道路右端にはモノコック構造の「スバル360」軽自動車が写っている。金太郎腹掛け塗装が似合う200型は1959年日本車輛製で、秋田市電最後の新車だった。1966年の秋田市電廃止後は岡山電気軌道に譲渡され、1981年の車体更新まで活躍した。

 1889年、秋田馬車鉄道が秋田~土崎に開業した軌間1391mmの馬車鉄道が、秋田市電のルーツである。その後、秋田電気軌道によって1067mmに改軌・電化して、秋田市内に路面電車が走り始めた。戦前の秋田市内線撤去や戦時中の市営化などの紆余曲折を経て、1951年に秋田市交通局が市内線を再建して、秋田駅前~土崎の直通運転が始まった。

秋田市内の雑踏を抜けると周辺は稲作地帯となり、土崎市内までは専用軌道を走る。小雨の中を元王子電軌の再生車である34が走ってきた。表鉄砲町~日吉(撮影/諸河久:1965年7月30日)
秋田市内の雑踏を抜けると周辺は稲作地帯となり、土崎市内までは専用軌道を走る。小雨の中を元王子電軌の再生車である34が走ってきた。表鉄砲町~日吉(撮影/諸河久:1965年7月30日)

 秋田市電は全線単線で敷設され、営業距離7300m、電車線電圧は600V。旧本線だった新大工町線500mも存在したが、1959年に廃止されている。

 次のカットは表鉄砲町から土崎市内まで続く田園の中の専用軌道を走る土崎行き秋田市電。夕方の多客対応で出庫した旧東京都電150型(元王子電軌)の再生車である30型を撮影することができた。

センターポールの区間である仙台駅前の市電撮影は来訪者の定番だった。市電の背景は旧国鉄仙台駅本屋で、東北新幹線の開業工事で建替えられた。(撮影/諸河久:1967年9月2日)
センターポールの区間である仙台駅前の市電撮影は来訪者の定番だった。市電の背景は旧国鉄仙台駅本屋で、東北新幹線の開業工事で建替えられた。(撮影/諸河久:1967年9月2日)

■杜の都の仙台市電

 仙台の冒頭写真は、国鉄(現JR)仙台駅前を走る10系統の原町駅前行き仙台市電だ。仙台駅前は創業以来のセンターポール区間で、来訪者の市電駅前撮影は必須だった。写真の100型は仙台市電初のボギー車として1948年から製造された車両で、24両の所帯は仙台市電の主力だった。このモハ123は1991年に地下鉄富沢車両基地内に開館した「仙台市電保存館」に保存された幸運な車両だ。

 仙台市による公営の路面電車は1926年に開業している。軌間は1067mmで電車線電圧は600Vだった。当初、仙台駅前~大町一丁目と仙台駅前~荒町の計3300mに2系統の電車が運行された。1928年の循環線開通や1948年の原町線(はらのまちせん)全通、1954年の全線複線化完成など仙台市電は最盛期を迎え、営業距離は16000mに及んだ。また、営業距離の短い割には運転系統数が16と群を抜いており、循環系統をメインにした頻繁な運行が実施されていた。

仙台市電環状線の裁判所前に停車する軽量・コストダウン構造のモハ400型。仙台版都電8000型と呼ばれる外観で、同系車は北陸の富山地方鉄道富山軌道線や加越能鉄道高岡軌道線(現万葉線)で活躍している。(撮影/諸河久:1966年3月3日)
仙台市電環状線の裁判所前に停車する軽量・コストダウン構造のモハ400型。仙台版都電8000型と呼ばれる外観で、同系車は北陸の富山地方鉄道富山軌道線や加越能鉄道高岡軌道線(現万葉線)で活躍している。(撮影/諸河久:1966年3月3日)

 次のカットは4系統北仙台駅前循環に充当された仙台市電で、撮影した裁判所前停留所は開通当初狐小路と呼ばれていた。写真の400型は、その外観から仙台版都電8000型と呼ばれた。1959年から市電の将来を見越した不燃軽量化・コスダウン構造で製造が始まり、1963年までに15両が製造された。最終増備のモハ415が件の「仙台市電保存館」に保存されている。

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福島でも「馬面電車」が活躍