狭隘な田舎道の泥軌道を走り去る梁川行きの電車。このモハ1110は1958年に日本車輛で鋼体化改造され、他車よりも車体幅が若干広く、方向幕も大型化されていた。飯坂東線・摺上荒町~河原町(撮影/諸河久:1967年9月2日)
狭隘な田舎道の泥軌道を走り去る梁川行きの電車。このモハ1110は1958年に日本車輛で鋼体化改造され、他車よりも車体幅が若干広く、方向幕も大型化されていた。飯坂東線・摺上荒町~河原町(撮影/諸河久:1967年9月2日)

■福島交通軌道線は偉大なる田舎路面電車

 福島の冒頭写真は、砂埃を舞い上げて飯坂東線の泥軌道を走る梁川行きの電車。訪問時には福島市内や一部町内の道路は舗装されていたが、それ以外は未舗装の田舎道だった。軌道が敷設された道路幅が狭いため、福島でも車体幅1.676mの準「馬面電車」が活躍していた。町と農村を繋ぐインターバンのような役割を担っており、往時の農作物の出荷には貨物列車も運行され、田舎路面電車の面目が躍如されていた。

 福島交通軌道線は、国鉄(現JR)福島駅前を起点にした飯坂東線(いいざかひがしせん)に保原線、梁川線(やながわせん)、掛田線の三線を加えた31500mの路線網を福島盆地に構築していた。

 福島交通軌道線の出自は、1908年に設立された信達軌道が蒸気動力・762mm軌間の軽便鉄道を福島駅前~十綱(後年飯坂→湯野町に改称)に開業したことに始まる。大正期に軽便軌道を各方面に延伸した。社名を福島電気鉄道に変更後、1926年から全線の1067mmへの改軌と電化工事に着手する。ちなみに、福島電気鉄道に路面電車が走り始めたのは、前述の福島駅前~飯坂で、電車線電圧は750Vだった。また、1962年からは社名を福島交通に改名している。

福島駅前の舗装道路を行く車体幅1.676mの馬面電車。軽便時代から引き継がれた朝顔型連結器や救助網が郷愁を誘う。元町~福島駅前(撮影/諸河久:1967年9月2日)
福島駅前の舗装道路を行く車体幅1.676mの馬面電車。軽便時代から引き継がれた朝顔型連結器や救助網が郷愁を誘う。元町~福島駅前(撮影/諸河久:1967年9月2日)

 最後のカットは福島駅前の目抜き通りを走る飯坂東線の福島駅前行きの電車。目抜き通りといっても、軌道の両脇に1車線確保がやっとの狭さだった。福島交通の電車は昔ながらの救助網を常備しており、救助網に自転車を乗せて走る微笑ましい光景も展開された。

 モータリゼーションによる輸送量衰退に対応する合理化で、筆者が訪問した1967年9月から一部の路線廃止が始まった。4年後の1971年4月に全線が廃止され、偉大なる田舎路面電車は追憶の彼方に消え去った。

■撮影:1969年5月5日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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