嫌だったのは、「男性で優しい人に出会えれば、あんたも(女性を好きになる性的指向が)治るんじゃない?」という決めつけに似た母の言葉だ。セクシュアリティーを巡る母子のせめぎ合いは続いた。実家に恋人を連れていって紹介しても、母は認めなかった。「結婚できない相手は、友達の延長線上でしかない」と。ようやく認めてもらえたのはそれから5年後だ。

 26歳で、新宿二丁目に店を出した。特製のお好み焼きを焼く女性優先のバーで、その名も「どろぶね」。実際、鳴かず飛ばずの時期もあり、その頃から付き合いのある我妻茜(33)は、「開業後の間もない頃、頼まれて店に寄ったら、店にいるのがさと子とスタッフだけ、ということもあって(笑)」と証言する。

 店は赤字続きで、28歳のときの貯金はゼロ。当時、付き合っていた年上の女性の家に転がり込んで暮らしていたが、やがて別れを迎え、家を出された。家を借りるお金もなく、車上生活は1カ月に及んだ。昼は弁当の移動販売員として、夜はどろぶね店主兼スタッフとして、働き詰めの日々だった。疲れすぎて眠れず、店が終わると夜中に横須賀まで車を飛ばした。真冬の海で暗がりの中、女一人、漫然と釣り糸を垂らしていた。

「今思えば、釣りという名の放心状態でした」

 失恋に始まり、母へのアウティング、家族の無理解、経営不振と苦難続きだった長村の一筋の希望が、子どもを持つことだった。

 10代の頃から「いつか子どもを産んでみたい」という思いはあったが、セクシュアリティーを自覚した当初は、<子のいる人生は、諦めないとダメなのかな>と考え、悲しい気持ちになった。ネットサーフィンを続けるうち、あるレズビアンが海外の精子バンクに英語の手紙を送り、子づくりに挑戦している体験が綴られたサイトを見つけた。

「私にも産む選択肢は残されているんだ!と。探していた参考書を見つけた気分でしたね」

■誰かの居場所作りが自分の居場所を作ることに

 セクシュアルマイノリティーの人がどう産んで、どう人とつながりながら育てていけばよいのか、考える団体が必要になる――。そんな思いから、10年2月、有志3人でこどまっぷの前身となる集まりを始めた。目指すのは、LGBTQが子どもを持つ未来を「当たり前に選択できる」社会だ。

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「子どもが欲しい」望みを現実に変える「実行力」