飯倉一丁目を発車して狸穴坂を力走する33系統四谷三丁目行きの都電。昭和時代の生活感に溢れる麻布風景。都電が走る国道1号線の道幅は狭く、歩道も設置されていなかった。飯倉一丁目~飯倉片町(撮影/諸河久:1965年9月12日)
飯倉一丁目を発車して狸穴坂を力走する33系統四谷三丁目行きの都電。昭和時代の生活感に溢れる麻布風景。都電が走る国道1号線の道幅は狭く、歩道も設置されていなかった。飯倉一丁目~飯倉片町(撮影/諸河久:1965年9月12日)

■読みも難しい「狸穴坂」や「土器坂」

 桜田通り(国道1号線)に敷設された六本木線には、麻布台の坂道が立ちはだかる。神谷町から飯倉一丁目にある「飯倉一丁目坂」を上ると、次の飯倉片町にかけて「狸穴坂(まみあなざか)」の上り坂が続いている。さらに、途中の飯倉交差点から分岐する札ノ辻線は、お隣の飯倉四丁目(後年、東麻布一丁目に改称)に向かって「土器坂(かわらけざか)」を下って行く。歴史を感じさせる「狸穴坂」と「土器坂」だが、読むのも難しい。

 飯倉一丁目を後にして、狸穴坂を飯倉交差点に向かう33系統四谷三丁目行きの都電の写真もご紹介しよう。このあたりからは60パーミルの上り勾配になっていた。歩道の設置もない狭隘(きょうあい)な道路、これが天下の国道1号線なのか?と首を傾げてしまう。画面左端の飯倉商店前に停まる軽三輪トラック「ミゼット」の存在が微笑ましい。地名になっている飯倉とは米倉庫のことで、当地には幕府の租税米を保管する御屯(みやけ)があったのがその由来だ。

かつての狭隘な国道1号線は拡幅され、都電が走っていたイメージは払拭されていた。背景には不規則な高層ビルが立ち並ぶ狸穴坂の近景。(撮影/諸河久:2020年3月15日)
かつての狭隘な国道1号線は拡幅され、都電が走っていたイメージは払拭されていた。背景には不規則な高層ビルが立ち並ぶ狸穴坂の近景。(撮影/諸河久:2020年3月15日)

 現地を訪ねると、半世紀の時の流れは景観を大変貌させていた。道幅は右折レーンも含めて片側三車線に拡幅され、統一性のない高層ビルが背景に林立する街になっていた。

 最後のカットが飯倉交差点で札ノ辻線に分岐して、土器坂の一旦停止線で停まる3系統品川駅前行きの都電。これから64パーミル勾配を下るシーンだ。画面左隅には、飯倉片町から坂を下って飯倉一丁目に向かう33系統浜松町一丁目行きの都電が見える。この交差点は三方向に曲線と上下勾配が続く都電の難所だった。都電の系統識別が難しいため、左上に写る信号塔には転轍手が常駐していた。

飯倉交差点の中央部で上り坂が終わる。札ノ辻線に入ってから少し進むと、一転して土器坂を下ることとなり「特別坂路 注意」の標識が現れる。土器坂の名称は、この界隈に土器職人が多く居住したことが由来となっている。飯倉一丁目~飯倉四丁目(撮影/諸河久:1965年9月12日)
飯倉交差点の中央部で上り坂が終わる。札ノ辻線に入ってから少し進むと、一転して土器坂を下ることとなり「特別坂路 注意」の標識が現れる。土器坂の名称は、この界隈に土器職人が多く居住したことが由来となっている。飯倉一丁目~飯倉四丁目(撮影/諸河久:1965年9月12日)

 これらの三坂のスペックは、飯倉一丁目坂が延長距離154m・最急勾配50.5パーミル、狸穴坂が延長距離133m・最急勾配64パーミル、土器坂(交通局では飯倉坂と呼称していた)が延長距離197.5m・最急勾配64パーミルという記録が残っている。

 山手特有のアップダウンが続く坂道の都電乗車は、力行するモーター音も加わって楽しいものだった。雨や雪の悪条件の日々も、粛々と坂道を走り続けた運転士の苦労が偲ばれる。

■撮影:1963年4月7日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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