日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)
日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)

■椎名林檎との出会い、大きな転機となった

 お年玉でベースを買ったのは中学2年生のとき。教育熱心な家族からは進学校に進んで東大に入るよう言われていたが、すでにミュージシャンになりたいという夢はふつふつと沸いていた。

「音楽で人の心を動かしたい」と、大学に進学せずプロの道に進みたいと父に相談した。

「とても穏やかな父が人生で一度だけ声を荒らげて、『人の心を動かす前に、日本の政治と経済を動かす人間になれ』と言ったんです。その言葉に妙に納得して、大学に行くことを決めました」

 早稲田大学に入学した亀田は、地元でプロを目指す仲間と練習スタジオに集まってバンド活動をするようになった。作ったデモテープがレコード会社主催のオーディションでグランプリも受賞した。しかし、いよいよプロになれると喜びいさんで打ち合わせに向かうと、デビューが決まったのはボーカルの女の子だけ。

「曲を作ったのも歌詞を書いたのも自分なのに、『亀田くんはスタジオに遊びにでも来れば?』みたいに言われた。つまり自分は要らないという扱いをされたんです。でも僕はヘソを曲げずに、言われた通りちょくちょくスタジオに顔を出すようにした。自分がこの環境を理解して操れるようになればプロになれると思ったんです」

 スタジオの現場でプロミュージシャンたちの仕事を見て学ぶうちに、徐々に仕事を回されるようになった。そうして25歳の時、作った楽曲がアイドルグループCoCoのシングル収録曲に採用され、アレンジも任される。ほぼ同時期にシンガー・ソングライター崎谷健次郎のバックバンドにベーシストとして声がかかり、そこからミュージシャン、作曲家としてのキャリアが開けた。初めて立った中野サンプラザのステージには両親も招待し、父も音楽の道に進むことを認めた。

「25歳まではずっとアマチュアだったけれど、その後に一気に道が開けた。しかもその時からプロの第一線の方々と常に仕事ができる環境だった。ハッタリの通用しない現場で可愛がってもらっていたことが、僕のバックボーンになっています」

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