この頃に出会った音楽プロデューサーの武部聡志(62)は、すでに亀田の才能を見抜いていた。
「最初に感じたのは、とにかくいい耳をしているということ。いろんな音の構成を聴きわけられる。いずれ日本を背負って立つようなプロデューサーになると、当時から思っていました」
武部は亀田にベーシストやアレンジャーとしての仕事を多く紹介した。亀田は武部から教えられた「遅刻をしない」「誰に対しても敬語を使う」「譜面はあらかじめ書いておく」という3カ条を今でも守っている。
こうして裏方ミュージシャンとしてキャリアを積み重ねていった。大きな転機となったのは97年、デビュー前の椎名林檎との出会いだった。
「林檎さんは東芝EMIからデビューが決まっていたんだけど、あまりにユニークで誰も取り扱い方がわからない。『亀ちゃんだったらうまくやってくれるんじゃない?』と声がかかったんです」
当時10代の椎名に出会った亀田が驚いたのは、ザ・ピーナッツやマライア・キャリー、ビートルズから映画「サウンド・オブ・ミュージック」まで、ジャンルや時代を超え幅広く音楽を嗜好
する彼女の感性だった。一緒にデモテープを作り始めても、細かいところまで好みのツボが合った。
「お互い、ありがちなものが嫌なんで『うわー、ないがち!』って、キャッキャ言い合いながらデモを作っていました」
■自分の知識は全て提供、若い世代にチャンスを
結果、椎名林檎のデビューアルバム「無罪モラトリアム」とセカンドアルバム「勝訴ストリップ」は共にミリオンセラーを記録。プロデューサーとしての亀田の名前も世に広く知れ渡った。
「椎名林檎さんという、自分がやることに関して絶対に妥協しない正真正銘のアーティストのデビュー作に関われたのはとても貴重な経験でした」
成功をきっかけに、スピッツや平井堅などさまざまなアーティストから声がかかるようになった。プロデュースをするにあたっての信条は「アーティストがやりたいことを、最短、最速で叶える」ということ。そのために自分のスキルや知識を惜しみなく提供した。
「譜面もデータも、頼まれたら全部渡している。自分のやり方を秘伝のタレのように扱うのでなく、自分の持っている経験とスキルを全部提供するというのが僕のやり方なんです」
仕事の場は徐々に音楽制作の現場以外にも広がっていった。2013年に放送が始まった「亀田音楽専門学校」(Eテレ)では、「総合芸術としてのJ-POPの魅力に迫る」をテーマに、様々なアーティストをゲストに招き、メロディーやリズムやコードなど音楽の基礎教養をわかりやすく噛み砕いて伝えることに腐心した。自身のラジオ番組やホームページでも、音楽の成り立ちを熱心に解説し続けている。
「僕が次世代への教育に力を入れるのは、今の自分を構築しているコアな部分が子どもの頃や10代の時に作られているから。それに自分の人生が変わったのは、いろんな出会いがあったから。だからこそ、若い世代にチャンスを与えなきゃいけないし、自分が最高の現場で培ってきた経験を伝えていかなければと思うんです」
武部はそんな亀田の意志をこう解説する。
「亀田くんは『音楽の良心』という言葉をよく使うんです。それを若い人に伝えたい、と。すごく亀田くんらしい言葉だなと思います」