日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)
日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)

 東京都心で無料の音楽フェスを開催するというのは前例のない試みだ。周囲からは反対の声も上がった。亀田に声をかけた日比谷野外大音楽堂の館長・菊本誠二(59)は「資金が調達できて無料にできるならこれ程良いことはないが、赤字にはできない。本当にお金が集められるのか心配だった」と振り返る。

 当初は資金集めに難航し開催に暗雲が立ち込めたが、「人生で初めてスーツを買った」という亀田自身がネクタイを締め、実行委員長として100社以上の企業を口説いてまわることで少しずつ風向きが変わっていった。

「自分が企業と話をしたり、行政に頭を下げたりするなんて考えていませんでした。そういうことをすると音楽の潔癖性が失われるとも思っていた。けれど、ここ十数年で音楽業界に動くお金が少なくなり、力がなくなっていく中で、そんなことは何でもないと思うようになりました」

 イベントを共に作り上げていく中で、菊本の印象に強く残ったのは、亀田の柔和な人柄と妥協しないこだわりだったという。

「誰に対しても腰が低く、偉そうにしているところを一度も見たことがない。本番直前になってもピリピリするようなことは一度もなかった。それでいて、こだわるところには絶対に妥協しない。助成金の申請書を書くときにも文章の細部まで全てに目を通して意見を言う。資料を提出する前夜に電話がかかってきたこともありました」(菊本)

 周囲の人々の亀田評は一致している。いつもニコニコ、誠実で熱心。でもその笑顔の裏には、強い意志と揺るがない音楽愛がある。デビュー時に亀田のプロデュースを受けたいきものがかりの水野良樹(36)はこう語る。

「いつも笑顔で、スタジオでもすごく気を使ってくださる。でも、判断が的確で速い。音楽にとってプラスかマイナスかだけで考える。感情に引きずられない、いい意味でドライなところがある。そこが亀田さんのすごさだと思います」
 
■小児喘息で学校に行けず、ビートルズに出会い没頭

 亀田は1964年、両親が仕事で駐在していたニューヨークで生まれた。父が撮影していた8ミリビデオには、白人の医師に見守られ黒人の看護婦に抱かれる生まれたばかりの姿が残っている。1歳で帰国し、その後は関西を転々として育った。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ