日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)
日比谷音楽祭の会場ではラジオの公開放送も行われた。ハウスバンド「The Music Park Orchestra」を率いてステージに立ち、ベースを弾き熱くなった手を楽屋裏で人知れず冷やす(撮影/門間新弥)

 母は音楽好きで、自宅のステレオでは常にクラシックやポップスなどの様々な名曲が流れていた。当時世界中で旋風を巻き起こしていたビートルズに母も夢中になり、レコードを買い集めていた。

 楽器との出会いも、教育熱心な母の影響で3歳の時にピアノを習い始めたことだった。音楽にのめり込んだのは小学2年生の時にかかった小児喘息がきっかけ。1学期の間ずっと学校を休み、布団の中でレコードやラジオを聴いて過ごしていた。

「あの頃はとにかく一日が長くて、ステレオで音楽を聴く以外に他にすることがなかったんです。そこでビートルズの赤盤と青盤に出会って没頭したのが大きかった」

 寝たきりでビートルズを聴きながら、天井の木目に世界地図などの模様を見いだしていたという。

「ただ音楽を聴いていただけじゃなく、その時にいろんなことを空想する、想像力の種のようなものが育まれたと思います」

 空想癖のある少年だった。小学5年生のとき、当時流行っていたBCL(短波放送)で在日米軍向けチャンネルのFENを聴くようになったことをきっかけに「全米トップ40」に夢中になった。毎週ヒットチャートを1位から40位までノートにメモするようになり、やがて、好きな曲が1位にならない悔しさのあまり、自分だけのオリジナルヒットチャートを作り始めた。そこから、DJもリスナーも自分という架空のラジオ局FMカメダを自室に立ち上げた。

「部屋の入り口に『FMカメダ』という手書きの看板を作って、勉強机にラジカセを置いて、『今週の第1位は赤丸急上昇、ビリー・ジョエルの“ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー”です』みたいに自分でラジオDJのように喋るんです。上位にしたい曲があったら自分宛てにリクエストのはがきを送る。そんなことを、小学5年生から高校2年生まで6年間、毎週末に続けていました」

 ベースを弾き始めるきっかけも小学5年生の頃だった。母が通信講座で買ったクラシックギターを手にとって、ビートルズの「ハロー・グッドバイ」にあわせて弾いてみたら、誰からも何も習っていないのに無意識でベースラインをコピーできた。
 

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ