「かもめ食堂」の「かもめラーメン味玉のせ」は半熟煮卵がかもめのたまご風に切ってトッピングしてある(新横浜ラーメン博物館提供)
「かもめ食堂」の「かもめラーメン味玉のせ」は半熟煮卵がかもめのたまご風に切ってトッピングしてある(新横浜ラーメン博物館提供)

 だが、震災後の気仙沼では、お店を建てることさえ難しかった。建築制限が解除されるまでは3年はかかると言われ、何から準備すればいいのかわからなくなってしまった。そんな千葉さんに、新横浜ラーメン博物館(「ラー博」)の館長で友人でもある岩岡洋志さんが、「首都圏からでも気仙沼市の魅力を伝えることはできる。復興するまで、『かもめ食堂』をラー博で温めましょう」と提案してくれた。

 提案からわずか4カ月後の12年2月、「かもめ食堂」は新横浜ラーメン博物館で復活した。それから15年4月に“卒業”するまでの3年間、新横浜で気仙沼のラーメンを発信し続けた。

新横浜ラーメン博物館で復活した「かもめ食堂」(同館提供)
新横浜ラーメン博物館で復活した「かもめ食堂」(同館提供)

 気仙沼での土地探しも続けていた。かつてお店があった場所の近くに出店できないかと探し続け、海沿いにある120坪の土地を見つけた。こうして15年11月19日、気仙沼「かもめ食堂」が帰郷オープンした。

 オープン時にはラー博の岩岡さんも駆けつけ、車の整理を手伝ってくれた。たくさんの人の力を借りてようやく実現した「かもめ食堂」の復活だった。

 ラーメンを作る上でこだわったのは、気仙沼の味を広めることだった。気仙沼はサンマの水揚げ量が多いことから、サンマの香油を使うことにした。さらに、千葉さんならではの半熟煮卵をトッピングもした。売り上げは右肩上がりで、「かもめ食堂」のラーメンを食べに各地から気仙沼に訪れる人も増えてきた。

気仙沼「かもめ食堂」の帰郷オープンには大勢の人が駆け付けた(新横浜ラーメン博物館提供)
気仙沼「かもめ食堂」の帰郷オープンには大勢の人が駆け付けた(新横浜ラーメン博物館提供)

「『かもめ食堂』を気仙沼復興のシンボルにしたいと思いました。自分を育ててくれた原点の味。ここがなければ『ちばき屋』もありません。先代の『かもめ食堂』が私の気仙沼の思い出となったように、これからの子どもたちにとってもここが気仙沼の思い出となるように努力していきます」(千葉さん)

 そんな千葉さんが愛するラーメンは、店主が100年後にその文化を残すべく作った究極の一杯だった。

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 中央区八丁堀にある喜多方ラーメンの「麺や 七彩」は、注文を受けてから麺を打つ“打ちたて麺”のラーメンを提供するお店だ。数多あるラーメン店の中で、麺でこれだけの個性を出せるお店というのはそうそうない。まさにここでしか食べられない一杯だ。

 店主の阪田博昭さん(48)のラーメンとの出会いは、幼いころに食べたサッポロ一番塩ラーメンで、「ソウルフードだった」と振り返る。

 阪田さんは16歳の頃に池袋ショッピングパークのラーメンチェーン「いとぐるま」でアルバイトを始めるが、深い理由があったわけではない。当時はバンド活動に明け暮れていたが、それだけで食べていけるほど世の中は甘くないと感じていた。飲食店であれば食いっぱぐれないだろうとの軽い考えで選んだアルバイトだった。

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