だが、幼少期から何かを作ることが好きだった阪田さんは、次第に料理の面白さに取りつかれていく。チェーン店という制約の中でどうしたら美味しいものを作れるかにこだわり、気が付けばアルバイトの中でもリーダー的な存在になっていた。この頃から、料理と音楽の2足のわらじで生きていこうと決心する。
そして、「料理をもっと勉強したいなら」と、先輩から紹介され、池袋のうどん居酒屋「きらら」に移る。20歳の頃だった。
和食メニューも充実していて、宴会料理を作ることも多かった。阪田さんは見よう見まねでたくさんの料理を自分のものにし、料理人としての自信も少しずつついてきた。
しかし一方で、アルバイトの立場ではできることに限りがあることにも阪田さんは気づいていた。仕事に悩むなか、プライベートでも大きな失恋を経験。一度都会の喧騒から離れようと、先輩のお母さんを訪ね、24歳で小笠原諸島に移住する。昼間は土工の仕事をしながら、夜は包丁の練習や料理をした。
ゆったりとした時間を過ごしていた阪田さんのもとに、「いとぐるま」時代の上司から電話が入る。人気イタリアン「カプリチョーザ」のFC展開の誘いだった。
「まだ小笠原でゆっくりしたいという思いもありましたが、周りの仲間からはチャレンジしてこいと背中を押されました。せっかく戻るなら天下を取ってやるという気持ちで東京に帰りましたね」(阪田さん)
こうして阪田さんは25歳でイタリアンの世界に飛び込んだ。上司と当時の店長、そしてもう一人、「いとぐるま」飯田橋店出身の藤井吉彦さん(51)が集まった。藤井さんはのちに阪田さんとともに「七彩」を立ち上げることになる人物である。
「カプリチョーザ」を新宿ワシントンホテル、新宿東口、新宿アイランドタワー、御茶ノ水と4軒展開し、店舗運営から厨房までを幅広く担った。マニュアル作りも行い、すべてのお店が繁盛店に成長する。この経験が阪田さんの大きな自信になる。
その後、27歳でソムリエスクールの運営や利き酒師の試験を主催する会社へ転職する。料理の腕を生かして講師などをしていたが、同時に岩手の日本酒「あさびらき」の蔵元レストランのプロデュースも手がけた。ここでも成功を収め、阪田さんは、転職先の社長と藤井さんと3人で、自分たちの原点であるラーメン店を地元で開こうと思い立つ。