まあ、そういう性分なんですね。これはそのまま、ラジオ番組の司会進行やシンポジウムの司会進行や交流会の幹事なんかをやるときに生かされました。でもそうした資質は、女性アナウンサーとしてテレビに出るときには全然求められていなかったので、生意気だとかでしゃばりだと言われることになりました。ま、その話は後で詳しく。

 今世間で雑に使われている「発達障害」という言葉には、空気が読めない、協調性がない、人の気持ちがわからないなどネガティヴなイメージが込められがちですが、私の場合は人の気持ちがわからないわけではなく、むしろわかりすぎてしんどいこともあり、しかし時として全然わからなくて怯えまくるというマダラ状態で、多分「わかり方」がマジョリティとは違うのだろうと推測しています。それと、わかった時にどうするかという行動の選択が違うのかもしれません(以前この連載でも書いたように障害は人それぞれ固有のものですから、私の事情をイコール軽度のADHDの典型的な特徴と思わないでくださいね。たった一人、サンプル数1の例を挙げているだけに過ぎませんから)。

 例えば先述のように大勢の人が一つの場を共有しているときに「この場でどのような質問をすれば、観客たちの疑問がスッキリしたり、思考がドライブして面白く感じられるだろうか」を推し量ることは、おそらく高校生の頃から得意であったのだと思われます。それは本能としか言いようのないものでしたが、長じてそれが仕事にもなったので、神さまからのギフトということもできるでしょう。

 しかし個人対個人の関係では、相手が自分をどう思っているのか、自分の言葉を相手がどう感じているのかを想像するのがとても苦手でした。失敗の連続で、人間関係に悩みに悩みました。相手の一挙手一投足に集中しすぎて過剰に意味を読み取ってしまう面があり、もう一方では、相手のちょっとしたサインに気づかず見落としてしまうという不注意さがありました。ここはちょっとADHDっぽいかもしれませんね。でもこれは発達障害というよりは、生育環境と生来の気質に起因する部分が大きいのではないかと個人的には思っています。

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