赤ん坊は何も知らず不安でいっぱいなところから人生をスタートします。完全世界とも言える胎内から未知の世界に押し出されて、意思表示もままならず体も思うように動かせず、最も無力な状態から他者に命を委ねるわけですから凄い恐怖ですよね。だから親にできることは「安心しろ、ここは安全で、君は守られている! 世界は君を歓迎している!」と全力で伝えることに尽きると思います。私はそのようにして息子たちを迎えました。
■学び損ねたコミュニケーションの雛形
おそらく私の両親も懸命に私を迎えてくれたのだと思うし、姉も9歳まで一人っ子として育った安寧を突如破った巨大(3800グラム)な妹の出現に戸惑いつつも、子どもなりに歓迎してくれたのだと思います。しかし悲しいことに彼ら3人はあまり養育的な資質のある親に育てられた経験がなく、つまりは安心して誰かに身を委ねた経験がなく、どうやってこの不安の塊の未知の生命体を歓迎したものか戸惑ってしまったのではないかと思います。でまあその結果として、要するに人生のごく初期の刷り込み段階で私は、安心できるコミュニケーションの雛形を学び損ねた感じはあります。それってつまりとてもシンプルな「いるだけでいい」っていう感じを体験的に知らずに育ったということ。条件付きでもなく高揚感を伴うわけでもなく「ただそこにいるだけでいいので、どうぞどうぞ」っていう空気が常にある場所が確保されていることって、とても大事なことなんだと思います。
相手の言葉を額面通りに聞いていると実はそれが怒りの伏線だったり、なんでもないやりとりがいきなり修羅場になったりすると、そのたびに混乱をきたし、居場所を失い、見捨てられる恐怖でいっぱいになります。このようにコミュニケーション学習の初歩の段階で非常に不安定な環境に置かれたことから、私は相手の敵意や怒りを常に警戒するようになりました。しかし相手のネガティブな感情や攻撃的な意図と、言語表現との相関性を学習するのが苦手だったようです。加えて一方では生来のお人好しというか不注意なところがあり、過去のことを細部にわたってネチネチ覚えているタイプではないので、時にそうした様子が相手にとっては無神経に映ったのかもしれません。