のちにアナウンサーとなってから、自民党の重鎮政治家の皆さんと共演する番組を長くやった時には(みなさまほとんど鬼籍に入られました)、古い世代の政治家の言葉遣いの多くは真意が別にあることを示唆する婉曲表現であるらしいことが窺えて非常に興味深かったです。ただ高度に洗練され様式化され、そのことによってあるコミュニティの中ではかなり汎用性の高い共通言語として用いられている話法だったので、そこを理解すれば、むしろ真意を読み解く面白さに引き込まれるようなところはあったように思います。と言っても私は政治記者ではないですから、そうなのであろうなと気配を察する程度でしたが。

 逆にそのコミュニティの外側にいる私のような政治素人かつ選挙区とも縁のない者には、重鎮たちも暗号化されていない温かい言葉をかけてくれることが多く、なるほどこうやって職業人としての政治家の言葉とそうでない民の言葉とを巧みに使い分けて人心を掴む類い稀なる能力のある人たちでないと長く政界で生き残ることはできないのだなと思いました。そしてそのうち何人かの方は本当に、どんな立場の弱い人にも分け隔てなく温かい言葉をかける人格者でした。中でも後藤田正晴さんは忘れがたい方です。今も私の家のリビングには後藤田さんのお写真が飾ってあります。

 とまあ大人になってからはそんなことも考えられるようになったのですが、それというのも人間関係で苦労したり、子どもを産み育てて言葉を持たない人とのコミュニケーションの学びを経たからであり、幼少期から20代まではなかなかの修羅の道でした。

 今振り返ると、というか今もそのきらいが多少あるのですが、相手の表情とそれまでの文脈から、言わんとすることを汲み取ろうとしても、そこに余計なバイアスがひっきりなしに入るのです。言うなれば両親や姉のコミュニケーションスタイルの踏襲というか、彼らの存在が内在化して常にいらんツッコミを入れる状態にあったわけです。

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