実はこのADHD的な特徴とジェンダーという問題について考えるきっかけをくれたのは『現代思想』のインタビューでした。それまでは私の中では両者は全く結びついていなかったのですが、思いついたことを闊達に口にするとか、何かにものすごく集中して他が見えなくなるとか、始終気が散って落ち着きがないとか遅刻しがちとか、これらの特徴は「女の子らしさ」の規範から外れたものと評価されがちです。つまりは周囲に気を配って場の空気を読み、お行儀よく慎ましやかにお利口さんに、かつ可愛らしく振る舞うのが「賢い女の子」であるという常識から外れています。同様の特徴が男児に見られた場合は、「男の子らしさ」の規範に照らして、案外良しとされてしまうものかもしれません。元気がいいとか面白いとか。
加えてもう一つ「まともな組織人であれ」という日本株式会社の厳しい掟もあります。男性はここでつまずくのではないでしょうか。それまではちょっと変わった面白いやつだったのに、仕事を始めた途端に「ダメ人間」の烙印を押されることになる。女性の場合はADHDの特徴によって「女らしくない」に加えて「組織人としてもダメ」という二重のスティグマを受けるわけです。これに気づいたときは、ああ、これが私のしんどさの複雑な構成要素の一つであったかと霧が晴れるような思いでした。
今はコミュニケーション能力というものが誤解されていて、誰とでもそつのない会話ができることだと思われているようですが、私はそうは思いません。コミュニケーション能力とは失敗を恐れず、学び合いを可能にする対話能力のことです。創造的対話や建設的議論をする力のことですから、空気を読んではいけないのです。空気があることは承知しつつも、その空気に含まれる「人々を黙らせるメッセージ」に対するカウンターはいかなるものであるかを考え、それを効果的に言語化することで他者の語りを引き出すことに他なりません。