新橋駅東側にある新橋交差点付近。混雑する交差点の間近に、都電の停留所が見える(撮影・諸河久:1967年9月19日)
新橋駅東側にある新橋交差点付近。混雑する交差点の間近に、都電の停留所が見える(撮影・諸河久:1967年9月19日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、丸ノ内や品川と並ぶサラリーマンの街、「新橋」の都電だ。

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 年の瀬になると、新宿や恵比寿などの繁華街は忘年会などで集まった若い世代で賑わう。そんな年忘れの主役こそ「おじさん」とばかりに集まるのは、サラリーマンの聖地「新橋」だ。平日でも夜が更けるまで賑わう新橋は、銀座や有楽町からも至近の距離にあり、二軒目から三軒目へと“はしご”しやすい。歴史ある名店も多く、舌鼓を打つ若い女性の姿も以前より増している。

 夜の喧騒とは打って変わって、日中は静かな街だ。虎ノ門や汐留などのオフィス街とも面しているので、早足で黙々と駅などに急ぐ人たちで溢れかえる。

 今回は、そんな新橋の51年前の光景だ。

 写真は、新橋駅の東側に位置する新橋交差点の南東角に所在したビルの屋上からの俯瞰ショット。新橋停留所を発車して金杉線を品川駅前に向う1系統と、新橋停留所で折り返しを待つ22系統南千住行きが写っている。画面右下が昭和通り、左上が外濠通り、左下が国道15号線になる。

 都電の停留所は「大人が二人横に並ぶと一杯になる」幅であったことが、この写真でおわかりになると思う。道路端で眼前を15m超の大型コンテナトレーラーが力走すると、恐怖心を抱く。当時の停留所脇を通過するトラックは10トン以下の小型で、スピードも遅かったから、さほど怖さを覚えることはなかった。

現在の新橋交差点付近。新橋から銀座にかけてオフィスビルが林立した。大正期に芝口町と呼ばれた町家の面影は片鱗もない(撮影・諸河久:2018年12月9日)
現在の新橋交差点付近。新橋から銀座にかけてオフィスビルが林立した。大正期に芝口町と呼ばれた町家の面影は片鱗もない(撮影・諸河久:2018年12月9日)

 銀座通り(国道15号線)を一丁目から南に進むと、八丁目で銀座が尽きて「新橋」にさしかる。現在では新橋の下を流れていた汐留川は埋め立てられ、頭上には東京高速道路の陸橋がかけられている。新橋を渡れば中央区銀座から港区新橋になる。地名となった新橋の由来は、汐留川のひとつ上流にかかる土橋よりも新しく架橋されたことから名付けられた。日本橋を起点とする東海道を芝方面に抜ける出入り口であることから、昔の旅人は「芝口橋」とも呼んでいた。

 新橋交差点から西に5分ほど歩くと新橋駅があり、東日本旅客鉄道を始めとする4社7路線が発着している。新宿や渋谷には及ばないが、多くの通勤客に利用されている。乗降口は東側に銀座口と汐留口、西側に日比谷口と烏森口がある。

 終戦直後、烏森口は巨大な闇市として全国に喧伝された。今でも当時の雰囲気を残す烏森の大衆酒場街が繁盛しており、新橋駅を利用するサラリーマンで賑わっている。

 1872年に日本で初めての鉄道が新橋~横浜間に開通した。開業当時の「新橋ステーション」は新橋の先を左に入ったところに位置した。この初代新橋駅には建築家リチャード・ブリジェンスによる西洋建築の駅舎があり、東京の玄関口として繁栄を極めたことは想像に難くない。明治期の絵図や絵葉書には新橋駅から眺めた銀座の街が必ず描かれていた。

 1914年に東京中央駅としての「東京駅」が開業すると、新橋駅は「汐留駅」に改称され、貨物駅として再使用された。同時期に隣接して所在した高架電車線の烏森駅が、二代目の「新橋駅」に改称された。1986年に汐留駅は廃止され、その跡地は新都市拠点整備事業地区に指定された。再開発整備計画が進められた結果、一帯の総称である「汐留シオサイト」の中核となる43階建ての「汐留シティセンター」が2003年に竣工している。

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