3人目は87年に近鉄入りしたベン・オグリビーだ。

 クモのように腕が長く、柔らかいことから「スパイダーマン」と呼ばれた長距離砲は、ブリュワーズ時代の80年に本塁打王(41本塁打)を獲得するなど通算235本塁打。当初は「オレはいくら金を積まれても日本に行く気はない」とメジャーひと筋だったが、「ウチは日本で唯一日本一になっていないチーム。あんたを男と見込んで頼む」という近鉄球団幹部の浪花節的な口説き文句にコロッと参ってしまう。

 さらに87年1月にブリュワーズをFAになり、「大リーグでやれてもあと1年。それなら、日本でもっと長くやって、バファローズを優勝させたい」と2年越しの交渉の末、来日を決意した。

 来日時に38歳だったオグリビーは、選手としてのピークは過ぎていたものの、猛牛打線の4番を担い、87年は24本塁打、88年も22本塁打と、そこそこの成績を残した。

 4人目は93年に巨人でプレーしたジェシー・バーフィールドだ。

 ブルージェイズ時代の86年に本塁打王(40本塁打)に輝くなど、通算241本塁打を記録。日米野球でも86年に来日選手最高の打率.450&4本塁打、90年にも打率.350&2本塁打と活躍したことから、右の大砲を欲しがっていた長嶋巨人の救世主として迎えられた。

 だが、チームトップの26本塁打、53打点を記録も、日本の投手の変化球に苦しみ、打率.215、127三振と低迷。7月8日の横浜戦では、四球で出塁して1死満塁とチャンスを広げながら、次打者・吉村禎章の右直を抜けたと勘違いして二塁走者を追い越してしまい、まさかの併殺に……。自重していれば犠飛で先制点が入っていたはずなのに、終わってみれば0対1の敗戦という皮肉な結果をもたらした珍プレーを覚えているファンも少なくないはずだ。

 5人目は“史上最悪の助っ人”として知られるダイエーのケビン・ミッチェルだ。

 ジャイアンツ時代の89年に47本塁打と125打点で二冠に輝き、来日時点で通算228本塁打と実績面では文句なしだったが、その一方で、トラブルメーカーとして悪名を馳せていた。

 95年に“V請負人”としてダイエー入り。NPB史上初の開幕戦初打席満塁本塁打など打率.300、8本塁打を記録したが、“サボリ病”は直らず、出場37試合にとどまり、2度にわたって無断帰国。最後は年俸の全額支払いを要求して、ドロドロの裁判沙汰になった。

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