沢田研二のシングル盤は様々な世界観があってどれもカッコいい! 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋 
沢田研二のシングル盤は様々な世界観があってどれもカッコいい! 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋 

沢田研二が「創造しい」時代

 沢田研二ザ・タイガースによる80~85年のシングル盤をあげると80~85年の楽曲は、80年1月1日リリースの「TOKIO」に始まり、「恋のバッド・チューニング」「酒場でDABADA」「おまえがパラダイス」、81年に「渚のラブレター」「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「十年ロマンス」、82年に「麗人」「色つきの女でいてくれよ」「おまえにチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」、83年に「背中まで45分」「銀河旅行」「晴れのちBLUE BOY」「きめてやる今夜」、84年に「どん底」「渡り鳥 はぐれ鳥」「AMAPORA」、85年に「灰とダイヤモンド」と続く。

 これらの楽曲の作詞、作曲、編曲に参加したのは、佐野元春、糸井重里、井上陽水、伊藤銀次、大沢(現・大澤)誉志幸、後藤次利、岸部一徳、白井良明、大村雅朗、湯川れい子、銀色夏生、秋元康……と、錚々たる顔ぶれ。なんだかスゴイてんこ盛りである。スージーさんが著書の中で、沢田研二のもっとも「創造しい」時代と名付けているのが、ものすごく頷ける。

 そんな80~85年の楽曲の中でも、スージー鈴木さんが“攻めてる”と一番にあげるのが「晴れのちBLUE BOY」だ。

「『晴れのちBLUE BOY』は85年5月10日にリリースされたシングル盤で、作詞に銀色夏生、作曲に大沢誉志幸、アレンジに大村雅朗さんの布陣で、とにかく劇的にカッコいい! 当時は、シングルとアルバムの位置づけが異なっていて、シングル曲はテレビの歌番組で歌うという非常に大衆的なメディアだった。しかし、沢田研二はこんな攻めた曲をシングル盤でリリースし、『ドリフ大爆笑』などで披露してしまう。日本の歌謡界の中では抜群に新しく、洋楽と比較しても遜色のない攻め方をしている。とにかくこの時期の楽曲の中で、実験性が大衆性を上回った“危険な”沢田研二の音楽活動を代表する一曲だと思いますね」

 83年の大晦日放送の「第34回NHK紅白歌合戦」で沢田研二は「晴れのちBLUE BOY」を歌う。“実験性”という点では、紅白の舞台での「晴れのちBLUE BOY」を語らないわけにはいかないとスージーさんは言う。

「ミリタリールックで沢田研二が妖艶に歌い終えたあと、総合司会のタモリが『歌う日露戦争』とコメントしました。白組が優勝し、優勝した組の中から最も優れたパフォーマンスをしたアーティストに送られる『金杯』を沢田研二が受賞しています。80~85年の沢田研二の曲は先鋭化していたんですが、沢田研二という媒介を通すと、日本で最も国民的な番組の紅白やNHKの人気歌番組「レッツゴーヤング」、子どもに大人気の「8時だョ!全員集合」でも披露できる。テレビという大衆的な“装置”で、あんな攻めた楽曲を輝かせることができる唯一無二の存在は沢田研二だと思いますね」

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