かりまた・につき/1997年、沖縄県宜野湾市生まれ。平和教育ファシリテーター。「戦争を繰り返さない社会をつくることが、私たち世代がやること」(写真:本人提供)
かりまた・につき/1997年、沖縄県宜野湾市生まれ。平和教育ファシリテーター。「戦争を繰り返さない社会をつくることが、私たち世代がやること」(写真:本人提供)

 2022年、志を同じくする仲間たちと「株式会社さびら」を設立した。「さびら」は「一緒に」という沖縄の方言だ。狩俣さんの肩書は「平和教育ファシリテーター」。ファシリテーターは進行促進役のこと。沖縄を訪れる修学旅行生を中心に、戦跡や基地を案内する。

 心掛けているのは、「インプット」で終わらせず「アウトプット」の入り口まで導いていくこと。なぜ、いつ、どのように沖縄戦が始まり、二度と同じことを繰り返さないためには、どうしたらいいのか。一方的なガイドや講義ではなく、参加者も一緒に考えてもらう。

 例えば、現地フィールドワークでは「アメリカ軍はどこから上陸したと思う?」といったクイズを出し、ワークショップでは「ガマと壕の違い分かる?」と問いかける。前者は自然の洞窟で、後者は人工的に掘られた穴だ。狩俣さんは言う。

「学んで終わりではなく、自ら考え続けることで、沖縄戦を自分ごととして捉えられるようになります」

 目指すのは「戦争のヤバさ」を伝えること。単に戦闘行為や破壊だけでなく、戦争が始まる前に起きていた「思想の統一」や「文化の剥奪」の話。戦後、沖縄の主権は回復したにもかかわらず米軍の占領によってつづく傷──。これら広い意味での、「戦争」に焦点を当てた平和教育をしていきたいという。

「そうして、体験者の方が言った『繰り返さない』という社会をつくっていくことが、沖縄戦を体験していない私たち世代がやることだと思っています」(狩俣さん)

 体験者が語る言葉には、人を動かす力がある。

「おばあちゃんから受け取った話は、繋いでいかなければと思います」

 と話すのは西由良(ゆら)さん(30)。都内でIT系の会社に勤務しながら、沖縄戦の継承活動などに取り組む。

 那覇市の出身。沖縄戦について考えるきっかけとなったのは、祖母・玲子(れいこ)さん(92)の壮絶な体験だった。

 祖母は那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島(とかしきじま)に生まれた。12歳の時、家族らで命を絶つ「集団自決」(強制集団死)を迫られた。

 島に米軍が上陸し、祖母の家族や親戚は「玉砕場」と呼ばれた場所に集められ、日本軍から配られた手榴弾で「自決」に巻き込まれた。死んだ後に離れ離れにならないようにと全員、足を紐でくくった。その時、叔母が祖母に「あの世に行っても、元気に学校へいくんだよ」と言った。すると、祖母は「あの世に学校なんてあるか!」と怒って叫ぶと、足の紐を振りほどいて走って逃げた。それを大人たちが追いかけ、そのおかげで家族は助かった。

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