
読売ジャイアンツ(巨人)で中心選手として活躍し、監督も務めた長嶋茂雄さんが3日、亡くなった。往年の名選手が長嶋さんの活躍を振り返る。AERA 2025年6月16日号より。
【写真】江夏豊のボールを空振り、勢い余ってヘルメットを飛ばす長嶋茂雄さん
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日本の戦後を照らした太陽が沈んだ。
「ミスター」と呼ばれた国民的英雄は時代と並走してきた。終戦直後の小学4年で野球を始めた長嶋さん。高校時代は無名だったが、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が国際社会に復帰した2年後の1954年に立教大に入学。通算本塁打8本の東京六大学野球記録(当時)をつくった。
長嶋さんは崇拝の対象という野球評論家の江本孟紀さんは振り返る。「学生野球のほうが華やかで、人気がありました。テレビも普及していなくて、私がどこで見ていたかというと映画館。映画が始まる前に流れるスポーツや政治のニュースで、『東京六大学野球で長嶋茂雄がホームランを打ちました!』ってね」
長嶋さんは58年に巨人に入ると、1年目から本塁打、打点の2冠を獲得し、新人王になる。翌59年にあったプロ野球初の天覧試合。ルーキーの王貞治が七回に試合を振り出しに戻す同点の2ランを打つと、九回に長嶋さんがサヨナラ本塁打を放った。この様子はNHKと日本テレビで中継され、大きな話題となった。
次第にテレビが普及するようになり、64年には白黒テレビの普及率が87.8%に。キー局は巨人戦を中心に野球中継を行うようになる。
中日で4番を打った谷沢健一さんは長嶋さんについて、「当時のプロはアマチュア界から『職業野球』と揶揄されていた部分もあったが、そこにプロフェッショナリズムを広めた」と話す。
巨人は川上哲治監督の下、65年からは9年連続日本一「V9」を果たした。3番王、4番長嶋の「ON」コンビは打線を引っ張り、「記録の王、記憶の長嶋」と呼ばれ、チームを支えた。巨人人気はテレビ中継の後押しもあり、全国に拡大。戦後復興から高度経済成長期を迎えた日本の「光」と巨人、とりわけ長嶋さんの姿は重なって映った。
空振りとともにヘルメットを飛ばす、三塁ゴロを派手に処理する、チャンスに強いといった長嶋さんの華やかなプレーは、人々の心をつかんだ。(編集部/秦正理、川口穣、岩田智博)

※AERA 2025年6月16日号より抜粋
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