主宰する講談教室では、初心者から丁寧に指導する。弟子の伊織は「師匠の指導は必ず良い所を見つけて褒めて下さるのが特徴」。自身の前座時代の体験から、弟子には理不尽な思いを絶対にさせない(写真/武藤奈緒美)

「はだしのゲン」を講談で 会場ではすすり泣きが

 香織が「はだしのゲン」を講談で語り始めたのは1986年。それから37年が経過していたが、よもやこんな時代が来るとは予想だにしていなかったという。しかし、ときおりゲンが憑依するという講談師は嘆いているだけではなかった。即座に広島県三次市で暮らす小武正教に連絡を取り、排除された地元広島での「はだしのゲン」の公演をやりたいと伝えた。小武は浄土真宗本願寺派西善寺の住職であると同時に神田香織講談教室の弟子である。小武は言う。

「私は門徒衆の皆さんに語りかける言葉と話法を探すうちに香織師匠の講談に辿りついたわけです」

 小武は、かつて祖父の故憲正が門徒衆たちに向かって戦地に向かうことを奨励する法話を繰り返し述べていた事実を知り、宗教者として侵略戦争に加担していたことを謝罪。現在に至るまで平和運動を続けて来た。香織からの要請に応じ、すぐに周囲に呼びかけると市民の関心は高く、たった10日ほどの準備期間にもかかわらず3月4日に広島弁護士会館で開催された公演には、120人の参加者が集まり、香織の熱演に聞き入った。

 その熱量は広島から関西にも伝わる。2012年に松江市教育委員会が「はだしのゲン」の市内小中学校での閲覧制限を求めるという事件が起きて以降、同書を店内に常備するようにしていた大阪の隆祥館書店店主の二村知子は、かねてより香織の講談を読者に届けたいと考えていたが、この削除と広島での動きを見て大阪公演の主催を決めてオファーを出した。

 4月1日に行われた大阪の会場には、子ども脱被ばく裁判の共同代表水戸喜世子、「教育と愛国」の監督斉加尚代、原発賠償関西訴訟原告団代表森松明希子など、100人を超える聴衆が集まった。ほとんどが、講談に触れることが初めての人々であったが、芸の力は圧倒的だった。香織が扮するゲンの独白の前にしわぶきひとつ立てずに聞き入る。原爆が投下され、家の下敷きになった父、姉、弟がゲンの目の前で焼け死んでいく。そして身重だった母はこの日にゲンの妹を出産するのだ。

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