大会中に47歳の誕生日を迎えたタイネンさんをプレスルームで祝う大会ボランティアと記者たち。左から2人目はタイネンさんの末娘(撮影:長野美穂)
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 反DEIの動きが進む米国では、障害者の仕事や医療が脅かされている。そんな中、難病で車いすになっても、仕事で現場を駆け回る男性を通して見えた景色がある。AERA 2025年6月2日号より。

【写真】インディアンウェルズ大会の全コートに障害者専用席と同伴者の席が完備

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 米カリフォルニア州の砂漠地帯インディアンウェルズ。今年3月、灼熱の太陽が照りつけるこの地で、世界のトップ・プロテニス選手たちが出場するBNPパリバ・オープン・テニス大会が開催された。

 1万6千人の観客が詰めかけたセンターコートの真ん中に、車いすに乗った1人の細身の男性が笑顔で現れた。

 彼の名は、マット・ヴァン・タイネン。第5のグランドスラムと呼ばれるこの大会のメディア・ディレクターを18年間務めている47歳だ。

 彼はこれまで毎年、バカラ製のガラスの重いトロフィーを自ら運んで優勝セレモニーを仕切り、世界中から集まる200人以上の報道陣の撮影の世話で連日走り回っていた。

 たとえば、ロジャー・フェデラー選手が優勝した時には、彼がすかさずスイス国旗を用意し、撮影の段取りを組んだ。昨年、スペインのカルロス・アルカラス選手が優勝した時には、コーチとの感動のハグの瞬間を撮影しようと殺到するフォトグラファーたちを彼がひとりで仕切って誘導した。

 そんなタイネンさんは、昨年の大会後、突然、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患していると医師から告げられた。

 ALSとは筋肉を動かす神経が障害を受けて、手足や喉や舌の筋肉が力を失い、やせていく進行性の病気だ。治療法はまだない。

車いすに乗って出勤

 昨年まで健康体で、センターコートの周囲を走り回って働いていたタイネンさんは、今年は、車いすを誰かに押してもらわなければ、ひとりでは動けなくなっていた。

「僕の身体の力は衰えて、声も変わってしまったけど、今年もプレスルームで皆と一緒に働くことに今まで以上に情熱を燃やしている」とタイネンさんは報道陣全員に伝えた。

 喉の筋力が弱まり、発音が不明瞭な彼のために、大会スタッフが彼の過去の音源からAI音声化を実現し、タイネンさんの新しい“肉声”メッセージが会場の巨大スクリーンから観客に向けて流れた。

 同大会で過去に5回優勝しているノバク・ジョコビッチ選手がタイネンさんに激励映像メッセージを送り、会場からは大きな拍手が起こった。

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