権威をめぐる同じような逆説は、オウム真理教の教祖、麻原彰晃の場合にもあった。麻原に関して、通常だったら超越的なアウラを完全に否定することになるような恥ずべきことをいくら暴露し、指摘しても、信者たちの麻原への帰依(きえ)は衰えることがなかったのだ。1995年当時、ワイドショーや週刊誌の報道において、オウムを批判する評論家たちによって頻繁に用いられた語は、「俗物」だった。麻原は、宗教的な指導者にはふさわしからぬ俗物だ、というわけだ。麻原は、ファミリー・レストランで暴食している、信者には禁じている肉も食べている、何人もの女性信者と性的な関係をもった淫乱である、等々。とりわけ、麻原の金銭欲の大きさが、俗物性の証拠だとして繰り返し指摘された。
評論家たちの狙いは、麻原の俗物性を暴くことで、信者たちの麻原への敬意や信仰を粉砕することにあった。「目を覚ませ、あいつはつまらない俗物だ」と。だが、考えてみると、こうした呼びかけが効果を発揮するはずがない(実際に無効であった)。評論家たちが、麻原が俗物であることをどうして知っているのかを考えてみるとよい。すべてが信者たちからの伝聞情報である。信者たちは、麻原が「俗物」であることをはじめから知っている。言い換えれば、麻原も、おのれの俗物性を――少なくとも徹底的には――隠そうとはしていなかったのだ。恥ずかしい俗物性は、信者の目には、麻原の「親しみやすさ」や彼の「真正性(嘘がないこと)の証し」として見えていた。
*
このように、トランプと麻原は、権威をめぐる逆説の構造を共有している。もう一点、オウム現象とトランプ現象の類似を指摘しておこう。どちらも、終末論的な世界観に強く規定されているのだ。オウム真理教の信者たちは、麻原彰晃の予言に基づき、ハルマゲドン(世界最終戦争)が切迫しているという構図で世界を捉えていた。彼らから見ると、ハルマゲドンがもうじき始まる。いや、極論すれば、ハルマゲドンはすでに始まっていて、都心に向かう満員の地下鉄に毒ガス・サリンをばら撒くテロは、この戦争の一部、あるいは前哨戦だったと解釈することもできる。ちなみに「ハルマゲドン」は、新約聖書の「ヨハネ黙示録」から取られた語で、厳密には、善と悪との最終決戦がなされる場所の名前である(日本人が最終的に雌雄(しゆう)を決する戦いを「関ヶ原」と呼ぶようなもの)。オウムは、仏教系の宗教であるとの自己認識をもっていたが、この終末論の部分には、キリスト教からの借用がある(*1)。