同年のダイエーは、王貞治を新監督に迎え、西武からFAの工藤公康、石毛宏典を獲得するなど、大型補強で福岡移転後初Vを狙っていた。そんな豪華布陣に“最強助っ人”が加わったのだから、ファンが「今年こそ」と期待を膨らませたのは言うまでもない。ミッチェル自身も「オレはダイエーで1年やって現役を終えるつもりだ」と完全燃焼を誓った。
デビューは衝撃的だった。4月1日の西武との開幕戦、初回無死満塁の来日初打席で、郭泰源の外角スライダーを左中間席に運び、NPB史上初の「開幕戦初打席満塁本塁打」の快挙。翌2日の西武戦でも中越えに2試合連続弾を放ち、開幕から3試合で12打数5安打7打点と評判通りの実力を発揮した。
メジャーリーグアナリストの福島良一氏も「もしも日本でフル出場したら、50発、120打点、打率.330くらい打って、三冠王も夢じゃないでしょうね」(週刊ベースボール4月24日号)と予想したが、真面目にプレーしたのは、開幕から10試合だけ。ここから持ち前の“さぼり病”が頭をもたげてくる。
4月14日の近鉄戦、ミッチェルは試合前のフリー打撃を行い、先発メンバーにも名を連ねていたのに、試合直前に「熱がある」という理由で欠場する。
翌15日の近鉄戦は4番レフトで出場したが、飛球を追った際に「古傷の右膝を痛めた」と訴えて途中交代。その後も体調不良や右膝痛を口実に5月10日までに計4試合を欠場した。
翌11日の東京移動日も、ミッチェルは出発前の練習を休んだばかりでなく、右膝痛を理由に遠征をドタキャンする。急きょ瀬戸山隆三球団代表が福岡に戻り、13日と15日に球団指定病院で右膝の精密検査を受けさせたところ、いずれも結果は「通常のスポーツをするのに支障はない」だった。
にもかかわらず、ミッチェルは「米国の主治医に診てもらう」と言い張り、さらには「サンディエゴで経営しているアパートと美容院が心配になった」というとんでもない理由で、5月26日に無断帰国してしまった。
球団側は契約時に右膝が完治していることを確認済みで、2度の検査でも異常が見られなかったことから、契約違反として解雇する方針を固めた。