
メジャーでの実績は申し分なかったのに、来日後、期待外れに終わった助っ人たちは少なくない。そんな中でも今から30年前、1995年に来日したダイエーの外野手、ケビン・ミッチェルは成績自体は悪くなかったが、試合直前のドタキャンや無断帰国など、素行の悪さで名を馳せたNPB史上きってのお騒がせ助っ人だった。
ジャイアンツ時代の1989年に47本塁打、125打点でナ・リーグ二冠とワールドシリーズMVPに輝いたミッチェルは、その一方で、88年に右膝手術、92年に左足疲労骨折、93年に左足骨折など、毎年のようにケガを繰り返したことから、“ケガの見本市”と呼ばれた。
また、サンディエゴのスラム街育ちで、2歳のときに両親が離婚。子供のころにギャング団に入っていたという劣悪な環境の影響から、素行の悪さも並外れていた。
88年にガールフレンドをアパートで殴り倒し、銃で脅す事件を起こし、被害者との和解条件として、「家庭内暴力カウンセリング」に1年間通うことを義務づけられた。
91年にも別の女性に対するレイプ、監禁、暴行傷害事件を起こし、もし起訴されていたら、数十年の懲役は免れなかっただろう。
野球選手としても、89年のカブスとのプレーオフの際に寝坊して飛行機に乗り遅れたり、ワールドシリーズ前の練習を無断欠勤、オフのMVP表彰記者会見を勝手にキャンセルして報道陣に待ちぼうけを食わせるなど、当時のアル・ローゼンGMも「彼自身がトラブルなんだ」と呆れるほどの無軌道ぶりだった。相次ぐケガや数々のトラブルに加え、荒れた私生活を送りながらも活躍できたのは、類まれな野球センスの持ち主だったからだ。
そして、30本塁打を記録したレッズ時代の94年に選手会のストライキでシーズンが打ち切られ、長期化したことが来日のきっかけとなる。翌95年は、ストの影響からフリオ・フランコ(ロッテ)、シェーン・マック(巨人)ら現役メジャーリーガーが次々に来日。古巣・ジャイアンツへの復帰話が流れたミッチェルも、推定年俸4億円以上という破格の条件でダイエーと契約した。