歴代2位の通算350勝の米田哲也(阪急〜阪神〜近鉄)も、達成までには紆余曲折があった。

 阪急時代に“ガソリンタンク”の異名で長くエースを務めた米田は、阪神移籍2年目の76年オフに戦力外通告を受け、一度は引退を決意した。だが、あと2勝で350勝とあって、阪急時代の恩師、近鉄・西本幸雄監督が「ウチでやったれ」と手を差し伸べてきた。

 翌77年、米田は8月9日の南海戦で7回を1失点に抑え、あと「1」に迫るも、9月中旬に右足を痛め、シーズン中の達成に黄信号が灯る。

 だが、2週間もボールを握れず、長いイニングを投げられない米田に、西本監督は10月7日の阪急戦で、“米田350勝作戦”とも言うべき、現役最後の晴れ舞台を用意する。

 1回に平野光泰の3ランなどで4点を先制し、4回表までに6対1とリードすると、その裏、米田が3番手で登板。最初の打者・簑田浩二に一発を浴びるが、2回を1失点に抑えた。

 そして、8対2で近鉄が大勝した試合は、先発・橘健治が1回1/3、2番手・太田清春が1回2/3、4番手・佐藤文男、5番手・柳田豊、6番手・太田幸司の3人がいずれも1回1/3を投げた結果、最長の2回を投げた米田が勝ち投手に。39歳で悲願を実現した右腕は「よく勝てたと思います。(満足に)歩くこともできないようなありさまだったのに」と感激しきりだった。

 しかし、皮肉にも48年後の今年3月、万引きで逮捕という残念な事件で再びその名がクローズアップされた。

 降雨コールドゲームに助けられる形で通算200勝を達成したのが、大洋・平松政次だ。

 82年のシーズンを終えて通算192勝。「ちょうどいい目標だし、肩のほうは(限界で)もうとっくに名球会入りしているからね」と翌83年中に200勝を達成して、引退するつもりだった。

 同年は7月までに5勝を挙げたが、8、9月は1勝もできず、10月の残り15試合で3勝するのは至難の業に思われた。

 だが、10月1日のヤクルト戦で9回2死まで1点に抑えて7月21日以来の白星を手にすると、同9日の広島戦も6回1失点で199勝目。残り9試合でリーチをかけた。

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