バースがこじ開けた伝説の扉、あれから40年(写真:日刊スポーツ)
この記事の写真をすべて見る

 今から40年前の1985年4月17日、甲子園球場での伝統の一戦、阪神巨人で、今も語り継がれる輝かしき伝説が生まれた。虎のクリーンアップ、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布が7回に放ったバックスクリーン3連発だ。

【写真】「2億円」が「400万円」に急降下 球史に残る“大減俸”を味わった選手がこちら

 プロ野球創設時から巨人と肩を並べる名門チームも、1964年のリーグ優勝を最後に、V9巨人の後塵を拝しつづけ、78年には球団初の最下位に沈むなど、苦難の時代が続く。

 84年も優勝した広島に23ゲーム差の4位に終わり、安藤統男監督が辞任。75年から3年間指揮をとった吉田義男監督が8年ぶりに復帰したが、“本命”西本幸雄氏に監督就任要請を断られた結果を受けてのもの。この時点で翌85年の阪神優勝を予想したファンはほとんどいなかったはずだ。

 同年の開幕直前の予想も、セ・リーグは前年日本一の広島、王貞治監督就任2年目の巨人、投打にまとまった中日が“3強”とされ、4月11日付の朝日新聞では、阪神は、大洋、ヤクルトとともに「常に上位で戦うには、いささか力不足」という評価だった。

 だが、開幕から1勝1敗で臨んだ4月16日からの本拠地・甲子園での巨人3連戦が、“ダメ虎”を大きく変える。

 16日の初戦は巨人に2点を先行されるも、4回のショート・河埜和正の落球をきっかけに1イニング7得点と一気にたたみかけ、10対2と大勝。あとから思えば、この“世紀の落球”こそが、新たな“猛虎伝説”のプロローグだった。

 翌17日の2戦目は、槙原寛己から決定打を奪えず、7回表を終わって1対3の劣勢。その裏、阪神は、木戸克彦の安打をきっかけに1死一、二塁のチャンスをつくるが、弘田澄男は左飛に倒れ、2死となった。次打者は、開幕後2試合で5打席連続三振を喫するなど、打率.133と絶不調の3番・バースだった。この日も3回無死一塁で二ゴロ併殺に倒れるなど2打数無安打。多くを望むのは無理と思われた。

 ところが、外角にシュートを投げるはずだった槙原の初球が、まるで魅入られたように144キロの棒球となって真ん中に入っていったことが、伝説の扉をこじ開ける。

次のページ その後も続いた阪神の「3連発伝説」