
勉学も妥協しなかった。小学1年生から始めた公文式では、4年生の時点で高校3年生の数学までを網羅した。中学受験を目指すが、受験直前に交通事故に遭い、あきらめざるを得なかった。
「悔しくて、中学に入ってからは学年トップを目指してがむしゃらに勉強しました。本当は勉強はめちゃくちゃ嫌いなんですけど、負けず嫌いの性格が支えてくれたように思います」
家族の支えはどうだったのか。母親は元教員。だが、「自分が教えると自分以上にはなれないと考え自分では教えないと決めていました」と話す。そのぶん、環境づくりには全力を注いだという。
「いい塾を見つけたら塾のそばに引っ越しましたし、高校入学後には高校の近所に引っ越しました。そこまでしなくてもと言われることもあるんですが、1秒でも早く学校や塾に行かせてあげたかったんです」
母親のこうした思いの背景にもバスケットボールがあった。
「0.1秒で運命が変わる競技だと思うんです。自分の時間も他者の時間も崇高なものとして捉えるという考え方を指導者の方々から教わりました。息子は小さいころからより厳しく難しい方向を選んでいくような子どもだったので、家族一丸で彼の行く先を支えようとやってきました」
1秒でも大事にする精神で、久能さんは新幹線や車の中など、移動中にも勉強を惜しまず、高校2年時には全教科の偏差値が80を超えたという。また、地元では総合型選抜を指導する塾がなく、関東の早稲田塾に入塾。オンラインで指導を受けた。
「一般入試でも挑戦できるという手ごたえはありましたが、3年生の最後まで、バスケを頑張りたい、仲間と戦いたいという思いで推薦入試を目指すことにしました」(久能さん)
久能さんと母親は悔しい思いも将来の展望も常に共有し、会話の時間を大事にしてきた。「何も言ってこない関係になったら親子とは言えない」と母親は言い切る。勉強でミスしたとき、試合でうまくいかなったとき、つらいときは一緒に泣いた。だからこそ、合格の知らせはともに「眠れないほどうれしかった」。
母親はともに走り抜けた大学受験をこう振り返る。
「仮に不合格だったとしても、総合型選抜は生きていく力を身に着ける経験になったと思います。研究の過程で、高校生に指導ができるのか、子どもの授業をなめるなと厳しい言葉もいただいて、彼にとっては挑戦の連続でした。社会をよくしようとしてもがき続けられたのはバスケットボールに熱中したこれまでがあったからだと思います」
久能さんにとって、もはや勉学とバスケは切り離すことのできない対の関係だ。
「早朝に朝練、放課後は20時くらいまで部活、そのあとに塾に行って帰宅は22時。そこからご飯食べてお風呂入って即寝るみたいなタフな生活をずっと続けてきましたが、つらさはなくて、むしろこっちを頑張れているからこっちも頑張れるという相乗効果があったと思います。大学入学後は両親の元を離れることになりますが、今までのルーティンは変えずに努力していきたいです」

