しかし二カ月ほど経ってみると、夜中に変な物音がするたびに不安になったり、間違いで鳴ったチャイムのことが一週間以上気になったり、深夜に帰宅する際に夜道の背後が怖くてなかなか自分の家に入る気が起きなかったりということが増えました。そして家に入っても、この部屋で死んだら誰にも気づかれずに朽ちていくのだろうという変な想像力が冴えてしまい、なかなかリラックスできないので結局もう一回外に飲みに行くなんていうこともしばしばありました。

 そういう時は安易な安心を求めるので、たいして好きでもない男を家に連れ込んでとりあえずの孤独や不安を誤魔化したり、何日か泊めてくれる適当な男と付き合ったり、だらしない女友達と数日ずっと一緒に飲み歩いて過ごしたり、という日々が続きました。それも自由な生活といえばそうですが、自由とともに降りかかってきた孤独との付き合い方がまだよく分かっておらず、とにかくシーンとした不安な時間を騒々しい何かで埋めようとしていたのだと思います。

虚しさに疲れた後、気づいてほしいもの

 そんな感じで、自由を謳歌する時間と、孤独を紛らわせる時間を交互に経験し、徐々に一人で暮らすことの寂しさと楽しさに慣れていったのが私の十九歳の年のできごとでした。大学院を卒業した最初の一年や、会社をやめた最初の一年も、少し似たような、思いっきり自由を楽しんだかと思いきや急な寂しさに苛まれる、という経験をした気がします。男と一緒に住んだり、別れて一人で住んだり、という時期も似たようなものかもしれません。

 だから虚しさを抱えて生きるのに疲れた、と思う時期があっても、個人的にはいいと思います。その疲れが、人生を生きるに値しないものにしてしまうほど大きくないのであれば。そしてその疲れの時期のあとに、両手いっぱいに抱えた自由の尊さに気づく時期が来るのであれば。

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英国で憧れた、労働者階級の人々