興味深かったのは、会場からは「【仇】は英語で何というのか」という質問があったことだ。本筋とは関係ない質問かもしれないが、実はこれが本筋なのではないかと思われるような「言葉の壁のある世界」に私たちは生きているのだと意識させられた。
私たちは、日本語の中で生きている。日本語の中で傷ついている。日本語の中で怒っている。日本語の中で闘っている。それなのに「英語で発信しなければなかったことにされるかもしれない」というグローバリゼーションを生きている。今回の議論はその葛藤を私たちに意識させるものでもあったのだ。
記者会見後、知り合いの男性ジャーナリストと話す機会があった。彼は伊藤さんに同情的で、「小学校の学級委員みたいな指摘だ。ジャーナリストが権力と闘わないでどうする」と憤っていた。なるほど、と思う。左翼的な男性たちにとって伊藤さんの事件は「当時、現職の総理大臣の『お友だち』が起こした性加害事件だが不起訴になった事件」であり続けているのだ。反権力という大義名分の前に、個人の同意や許諾などたいしたことないと考えられるらしい。でも……と思う。伊藤さんを身近で支え、共に涙し、裁判を勝利に導いたのは、西廣弁護士をはじめ、記者会見に青ざめた顔で集まった女性記者たち、思想信条と関係なく同意のない性交を許してはいけないと憤った「学級委員みたいな」女たちだったのだ。女性への暴力を許さない、不正義を許さないと、伊藤さんと共にあろうと誓った女たちだったのだ。そんな女たちの「恩を仇で返してはいけない」という「学級委員」みたいな倫理は、バカにされるような価値ではないと私は思う。
記者会見が終わると、伊藤さんの声明が印刷されてFCCJの入り口に届いていた。そこには許諾や同意が「抜け落ちた」として謝罪が記され、作品を一部編集すると記されていた。記者会見のキャンセルは残念だったが、いつか伊藤さんの声で、日本語で語られる日を待ちたい。
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