芥川賞作家の李琴峰(り・ことみ)さんのエッセイ集『日本語からの祝福、日本語への祝福』(朝日新聞出版)が2025年2月21日に発売されました。
台湾で生まれ、15歳までは「あいうえお」も知らなかった著者は、日本語の何に魅了されたのか。第二言語として日本語を学ぶことの面白さと困難さ――。日本語への新たな知見があふれる一冊です。
刊行を記念して、李さんを虜にした日本文化「ポケモン」、その出会いを抜粋・再編集して特別に掲載します。
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私の祖父母も両親も日本語ができない。それどころか、一族や親戚の中には日本人や日本在住者はおろか、日本語ができる人は一人もいなかった。子ども時代の私にとって、日本語に触れる機会は皆無に近かった。それが私と他の台湾籍日本語作家との決定的な違いである。
日本語という言語を選び、学習したのは家庭環境の影響ではなく、100パーセント自分の意思なのだ。
平成元年生まれの私が「平成」という言葉を知ったのは、日本語がある程度上達した十代後半のことだった。「昭和」という言葉はもっと早くから知っていた。小学校低学年の時、スタジオジブリのアニメ映画『火垂(ほた)るの墓』で知ったのだ。あれはVHSの時代で、日本のアニメも台湾では中国語の吹き替えが施されていた。だから私がそこで覚えたのは厳密には「昭和(しょうわ)」という日本語ではなく、中国語読みの「昭和(ジャウハー)」だった。当然、どういう意味か全く見当がつかなかったけれど。
では、人生で最初に耳にした日本語の言葉は何だったのだろうか。記憶の糸を手繰ってみると、ある歌が幼児期健忘の薄闇から浮かび上がってきた。男の声が切々と、「サチコ」と連呼している。
日本のバンド、ニック・ニューサの演歌「サチコ」だ。1981年に発表され、大ヒットした曲らしい。80年代と言えば昭和演歌の全盛期で、酒、故郷、港町、悲恋、耐える女などをモチーフにした歌が大量に作られ人気を博した。そしてその影響が台湾にも波及し、台湾語歌詞のカバー曲が数多く作られ、台湾歌謡界の一大ジャンルとなった。「サチコ」が日本で発表されて十数年経った後、台湾のカラオケで誰かがそれを日本語で歌い、その場に居合わせた幼い私が耳にしたのだろう。
もっとも、当時の私は日本語が全くできず、五十音すら読めなかったから、歌詞の意味も何も分からない。ただ、哀切な旋律に乗って連呼された「サチコ」という意味不明の響きが面白いと思った。それは台湾語の「捒一箍(サッジコー)=一円を捨てる」と発音が似ているからだ。なんでお金を捨てんねん? と内心ツッコミを入れていたかもしれない。