確かに田代がもっと本塁打を量産していれば、無冠で終わることもなかっただろうし、チームの成績ももっとアップしていたかもしれない。

 本人も「もっと欲を出していれば、400本は打てていただろう。おれは野球をなめていたところがあったのかもしれない」(赤坂英二著「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」講談社)と回想している。

 1990年代、10年間で最下位6度と“暗黒時代”の阪神にあって、頼りにならない助っ人たちに代わって虎の主軸を担ったのが、平塚克洋だ。

 89年のドラフト3位で大洋に入団した平塚は、オリックス時代も含めて通算106試合で通算打率.226、7本塁打と目立った活躍ができなかった。

 ところが、96年、阪神への移籍が、野球人生を劇的に変える。同年は5月10日の巨人戦で逆転満塁本塁打を放つなど、チームが2年連続最下位に沈むなか、初めて規定打席に到達し、11本塁打、47打点の活躍。「ここまでやってくれるとは思わなかった」と球団関係者を喜ばせた。

 さらに翌97年も、“虎の救世主”と期待されたグリーンウェルが出場わずか7試合で“神のお告げ”退団、もう一人の助っ人・ハイアットも打撃不振にあえぐなか、平塚は27試合で4番を務めるなど、キャリアハイの打率.293、17本塁打、68打点をマーク。「甲子園の応援は強烈。厳しいヤジもあるけど、逆に励みにしながらグラウンドに出てるんです」(週刊ベースボール10月13日号)と気合を充実させ、31歳で初めてオールスターにも出場するなど、孤軍奮闘した感があった。

 暗黒時代といえば、落合博満の中日移籍後のロッテも、1987年からの8年間は、良くて5位、最下位4度と低迷した。

 そんな“冬の時代”にあって、“ポスト落合”の和製大砲候補として、古川慎一とともに有藤道世監督から期待されたのが、岡部明一だ。

 中大時代は、全体練習が終わったあとに、ただ一人グラウンドに残り、黙々と素振りに励む練習熱心な選手だった。84年のドラフト3位でロッテ入り。1年目はアキレス腱と膝を痛め、シーズン終盤に6試合出場しただけで終わったが、12打数7安打5打点2本塁打を記録し、新5番候補に名乗りを挙げた。

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“師匠”落合博満の打撃指導で自己最多本塁打