大物ルーキーの起用法をめぐり、2年目のシーズン途中に電撃退団したのが、阪神時代のドン・ブレイザー監督だ。
南海で内野手としてプレーし、引退後もヘッドコーチとしてプレーイングマネージャーの野村克也監督を8年間補佐したブレイザーは、日本球界に“シンキング・ベースボール”を浸透させた実績を買われ、79年、阪神の監督に迎えられる。そして、主砲・田淵幸一を放出する大型トレードでチームを活性化。前年最下位に沈んだチームを4位に浮上させた。
ところが、翌80年、ドラ1ルーキー・岡田彰布の起用法をめぐり、騒動が勃発する。
早稲田大時代に三塁を守っていた岡田は、チーム事情から二塁にコンバートされたが、ブレイザー監督は「将来チームを背負うスターは、2軍でじっくり育て、シーズン半ばで1軍に上げるのが良い」というアメリカ流の考えから、なかなか先発で使おうとしない。
ファンの不満とやり場のない怒りが、岡田と同じ二塁手で、ブレイザー監督がキャンプ中に獲得した前ヤクルトのヒルトンに向けられた。「岡田が出場できないのはヒルトンのせい」と思い込んだファンは、ヒルトンが打席に立つと“岡田コール”を送り、自宅には無言電話や「家族を殺す」などと脅迫する手紙が相次いだ。精神的重圧から打撃不振に陥ったヒルトンは5月10日に退団した。
そして、ブレイザー監督も5日後に辞任。球団が何の相談もなしに新外国人・ボウクレアを獲得し、指揮を続ける意欲を失ったことが直接の原因だが、岡田の起用法に不満を抱いていた球団側が辞任に追い込むため、新外国人の一件を“切り札”に用いたともいわれる。
その後、81年から2年間、南海を指揮したブレイザー監督は、シーズン5位、6位と低迷し、退団帰国。名参謀は名将になることはできなかった。
冒頭で紹介したバレンタインも、95年、史上初の大リーグ監督経験者としてロッテに迎えられながら、広岡達朗GMとの野球観の違いから、たった1年で解任されている。