ロッテのバレンタイン監督
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 NPBの外国人監督といえば、2005年のボビー・バレンタイン(ロッテ)、06年のトレイ・ヒルマン(日本ハム)のようにチームを日本一に導いた名将もいるが、その一方で、アメリカと日本の野球観の違いが原因で、志半ばで辞任した指揮官も存在する。

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 日系人を除いた純然たる外国人監督第1号として知られる広島のジョー・ルーツ監督もその一人だ。

 1974年に1軍打撃コーチとして来日。同年オフ、3年連続最下位に沈んだチームの再建役として監督に就任すると、「チャレンジ」をモットーに、内野のキーマン・大下剛史やリリーフの要・宮本幸信を獲得するなど、大規模なトレードやコンバートでチームを一新。チームのトレードマーク・赤ヘルも、ルーツ監督が「燃える闘志」の象徴として導入したものだった。

 だが、そんな意気込みとは裏腹に、開幕からわずか15試合で退団帰国してしまう。

 4月27日の阪神戦、ボール判定に激高したルーツ監督は、審判への暴行で退場を宣告されたが、なおも本塁上に立ちつづける。

 ネット裏で観戦中の重松良典球団代表がグラウンドに降りて説得すると、ようやく応じたが、ルーツ監督は「契約でグラウンドの全権を与えられていたにもかかわらず、代表が出てきて説得を行ったのは権限の侵害だ」として、後任を決めるよう言い残すと、ダブルヘッダー第2試合の指揮をとることなく、球場を立ち去った。契約第一のアメリカ流と、トラブルが起きたら話し合いで解決する日本流の異なる価値観がぶつかり合った形だ。

 その後も球団側の慰留に対し、ルーツ監督は「チームのことを考えて去る。日本の習慣により理解を示す人が監督になるべきだ」と答え、同30日、正式に退団した。

 NPB史上最短の監督辞任劇となったが、チームは後任の古葉竹識監督の下、一丸となり、球団創設26年目の初優勝を実現。ルーツ監督が目指した機動力重視の緻密な野球を受け継いだことから、「優勝はルーツの遺産」と言われた。

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