そんな矢先の99年、都市対抗の補強選手でチームメイトになったキューバ出身のオマール・アヘテが2大会連続五輪で金メダル獲得の実績にもかかわらず、黙々とタイヤ引きに励む姿に触発され、「やるだけやってダメなら、あきらめもつく」(週刊ベースボール2001年12月3日号)とタイヤ引きを始めた。

 このトレーニングが功を奏し、翌2000年春のスポニチ大会では、2勝1セーブの活躍で優勝の立役者に。都市対抗や日本選手権でも登板し、プロ入りに大きな手応えを掴んだ。

 会社側も「ドラフトまで待つから、指名されなかったときはチームに残ってほしい」と厚意を示してくれたが、「そんな勝手なことはできない」と退職してドラフト指名を待った。

 しかし、27歳という年齢もあり、朗報は届かなかった。それでもプロ野球選手になる夢をあきらめることなく、台湾の兄弟にテスト入団。「台湾で活躍して、日本でプロ野球のマウンドに立つ」を目標に連日投げつづけた。

 01年は開幕3戦目の和信戦で16奪三振の1安打完封勝利を挙げるなど、登板31試合で11勝10敗1S、防御率2.21、166奪三振を記録して、後期優勝に貢献。統一との台湾シリーズでも勝ち試合すべてに登板し、チームをチャンピオンに押し上げた。

 その後、ダイエーのテストに合格し、ドラフト7巡目指名で入団。ダイエーは翌02年、台湾で初の公式戦を行うことから、養父の凱旋登板も期待された。

 だが、不運にも腰を痛め、1軍登板なし、2軍で登板15試合、0勝1敗、防御率4.87に終わると、10月1日、鈴木平ら6選手とともに戦力外通告を受けた。たった1年でクビという結果に、養父は「プロは結果がすべての世界」と現実を受け止めながらも、「でも、不完全燃焼です」と再び海外に活路を求め、翌03年、ホワイトソックスとマイナー契約。2Aからスタートし、変化球の腕の振りを矯正して3A昇格をかち取った04年8月には、ノーヒットノーランも達成した。

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チャレンジしつづけた16年間