台湾球界を経て28歳のときにドラフト7巡目指名でダイエー入りも、わずか1年で戦力外に。だが、その後もメジャーに挑戦するなど、激動の野球人生を送った投手がいる。男の名は、養父鉄。
小学2年のときに地元・逗子リトルリーグで野球を始めた養父(旧姓・小倉)は、山梨県の帝京三に進学し、2年秋からエースになるが、翌年3月、中学時代に患った左足かかとの骨髄炎が再発。春の県大会を棒に振ってしまう。
5月の連休明けに復帰すると、筋力トレーニングで球速もアップ。夏の県大会初戦では、小林雅英(元ロッテなど)の都留を8回4安打に抑えて10対0で快勝も、3回戦の山梨学院大付戦では、「抑えなければ」と意識するあまり、4回7失点と打ち込まれ、無念の敗退となった。
甲子園の夢こそ絶たれたが、夏の大会後、萩原淳(東海大甲府、元オリックスなど)らとともに県選抜の米国遠征メンバーに選ばれ、アイオワ州で6試合を行った。養父は7イニングで14奪三振を記録し、プロからも注目されたが、東都リーグの亜大に進学した。
1年先輩の入来祐作(元巨人など)はじめ、逸材揃いのチームにあって、養父は足のケガやぎっくり腰など故障が相次ぎ、入学後3年間リーグ戦で出番がなかった。
チームが2部に降格した1995年春、最上級生になった養父は背番号18でベンチ入りし、開幕カードの専大戦で2試合続けてリリーフ登板も、本塁打を浴びるなど結果を出せず、大学では登板2試合で終わった。
卒業後は日産自動車に入社し、1年目の秋の関東選抜リーグで新人賞受賞。97年にはインターコンチネンタル杯日本代表チームとの練習試合で好投し、日米のスカウトから注目されたが、全国大会で活躍した選手でなければプロ入りを認めない会社の方針もあり、誘いのあったメジャー球団のキャンプ参加も断念。課題の制球力を克服できず、同期の川越英隆(元オリックスなど)ら実力者揃いの投手陣の陰に隠れる不遇の日々が続く。