アメリカンスクールでは「芸能人扱い」されず
――芸能界に入ると決めた時に、歌手になりたい、俳優としてやっていきたいなどの希望はありましたか。
当時まだ13歳で、正直、日本語もたどたどしかったんですよ。何かを目指してレッスンを受けていたわけでもなかったので、事務所も私も「どういうタレントになれるのかな」というところからのスタートでした。
でも、歌のレッスンを始めて、いろんなオーディションを通して自分のカラーみたいなものは見つけていきました。当時は杏里さんの「オリビアを聴きながら」のように少し英語が入っている歌や、アン・ルイスさんの曲を課題曲として歌っていたんですが、そういう曲を通して、歌手としてのイメージも自分の中につくっていきました。
――帰国した後はアメリカンスクールに通いながら、芸能活動と両立されていたんですよね。
当時は「アイドル」といったら、3カ月ごとに新曲を出して、プロモーションして……というのが“常識”で、私のように学校に行きながら芸能活動をするのは、スケジュール的に両立しないと思われていた時代でした。
ですが、私の場合、デビューするにあたっては事務所と両親が話し合って、「学業を優先する」ことをルールにしていたので、芸能活動は学校に行った後の放課後と、長い夏休みの間だけでした。
アメリカンスクールに通っていたことで、いわゆる「芸能人扱い」をされなかったことはよかったです。芸能界デビューする前からのお友達がたくさんいたので、学校が自分自身のベースというか、「素に戻れる」場所でしたね。
お仕事で不安になったり、プレッシャーがかかったりしても、学校に行けば息抜きになったし、学校と芸能活動を両立させたことで精神的に安定した部分があったと思います。そういう意味で、大学に進学するのも当然のことでした。事務所としては「もう少しフルに仕事ができたら」みたいな思いもあったと思いますけどね(笑)。
――1980~90年代は帰国子女がアイドル活動をすること自体が珍しかったと思いますが、当時、「帰国子女アイドル」として見られていることを、どう感じていましたか。
英語が使えることで、音楽祭で通訳をしながら司会をしたり、普通ではできないようなハリウッドスターの方へのインタビューをしたりと、いろんな経験をさせてもらいましたので、帰国子女であることはマイナスではありませんでした。でも当時は「バラドル」が全盛で、日本語のバラエティー番組でうまくやっていくのが一番評価される時代でした。その点では、私は言葉の壁を感じていたり、他の人が見て育ってきたドラマやアニメに触れていなかったりしていた部分があったので、不利に感じることもありました。