妄想と遊び、楽しむ山折哲雄流「座禅」術 心と体が得する話
座禅、瞑想。
と聞くと、雑念からいっさい自由になった無念無想の世界を想像する人が多いだろう。ときには頭を空にして仕事や家庭のストレスから逃れたいけれど、自分にはそんな境地は無理だ、と考えるのが普通。
だが、それなら自分にもできるかも、と思う座禅を、宗教学者で京都造形芸術大学大学院長の山折哲雄さんが二十年近く、毎朝続けている。むしろ頭の邪念とたわむれる、「妄想型の座禅」なのだという。
「まあ、いうなればデカルト的瞑想ですね」
――はあ?
「永平寺行きがきっかけで座禅を始めたので、最初は道元のような無念無想をめざしていました。ところが、いつまでたっても頭から邪念が払えない。カネのこと、女のこと、食べ物のこと、憎たらしいやつのこと、とそんなことばかり考えてしまう。それで二十年たって、諦めました。凡人には無心は無理だって。そう吹っ切れると楽になった。少なくとも妄想に遊ぶ自分を楽しんでいることは確かで、哲学者のデカルトの言葉のように『われ思う、ゆえにわれあり』の気分になってきた。自分の中で道元とデカルトが重なったんです」
毎朝、四時、五時に起きて、一本の線香が燃え尽きるまでの五十分の座禅で、心身の状態がコントロールできるという。
アカデミズムの世界に安住できなかった山折さんは三十、四十代を、辞書を編纂する民間研究所や出版社などで働き、妻子を養いながら、大学時代からの自分の研究課題を家で書き続ける生活をした。
「この年齢は『地獄の世代』ですよね。会社では搾り取られるように働かされ、家では子供を育てる。私の場合、生活基盤や将来への不安もあって、なおさらでした。そんななかで、なお自分の好きな仕事を続けるには、朝しかない。で、四十代に入ったころから、酒を多少控え、早寝早起きをして、朝に一人だけの特別な時間をつくるようになりました。そのあと、永平寺に行き、朝の時間の始まりの儀式として座禅を始めるようになったのです」
――夜は楽しいことが多くて、なかなか切り捨てにくいと思いますが。「たしかに、ね。でも、何かをやろうとすれば、何かを犠牲にしなければいけないんです」
山折さんは朝の座禅のときのような、自分だけの特別な輝きの時間を「林住期の時間」と呼んでいる。
古代インドの人生観には、師について学ぶ禁欲的な「学生期」、結婚して子供を作り、職業に専念する「家住期」のあとに、家長が一時的に放浪・冒険し、仕事や家から自由になる「林住期」というライフステージがある。それを一日の時間にも当てはめ、「林住期の時間」と呼ぶ。
「朝の座禅は一人でするからこそ、輝くのです。一人というのは孤立していて、孤独で、寂しく、反俗的なものです。こうした時間を持つことで心の中も自由になれるのです」